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茶飲み友達

 痛風の激痛で1週間も歩けず仕事を休んだ。そこから学んだものが多くあった。

 立って歩くことができなければ、当然仕事はできないし、トイレさえ難しい。一人で生活することは極めて困難である。言い換えると歩けるだけでとても幸せである。

 発作の激痛は拷問だった。人間は痛みから逃れるためなら四つん這いでも何でもする。恥ずかしさなんてなくなる。喚き散らしても他人には痛みが見えない。人為的に痛みを与えられれば、主義・主張・信条まで変えてしまうに違いない。恐ろしいことである。
 少しだけ痛みが和らいでも、何をする気も起きない。風呂や洗顔、掃除も洗濯も、ゴミ出しも、新聞を取り出すことさえしたくない。
辛うじてあるのは食欲だけ。
そして、
妻はありがたい存在だと気づく。

さらに痛みが和らぐと、SNSを覗いて投稿を読み漁る。テレビや新聞や読書をするようになる。

さらに痛みが和らぐと、満たされない気持ちで作文を書いて、SNSに投稿して、反応を楽しむようになる。そして、SNSは精神安定のためになることを知った。やがて、なんとか歩ける状況になると仕事に行きたくなった。

 今年の夏休みは痛みがないだけで今回の状況に似ていた。打ち込むことが何もなくて「暇だ」「暇だ」と言い続けた。辛うじて近況を作文に書いてブログにアップし、それでも余った時間は読書とテレビとまちづくり協議会のお手伝いに費やした。散歩と家事もあった。ほんの少し腰が痛いだけで満足するほど歩けなかった。また、さほど妻の役に立ったとは思えなかったが、暇だからという理由だけで家事を手伝った。

夏休みと痛風の発作で休んだ一週間は、成し遂げたことに差はない。痛みはないのに不満ばかりで幸せのかけらも感じなかった。立って歩けるだけで喜びだったのに、それを知らずに過ごした。

オンライン飲み会を復活したが、発作がぶり返すのが怖くてアルコール抜きだった。夏休みに友達と飲み会を計画した時、暑くて外出する気が起きないと涼しくなるまで延期したのを思い出してメールを出した。
「痛風が怖いから、もう少し先に伸ばそう。」
返信が来た。
「俺も腰痛で1週間寝ていた。」
読みながら「同じ」だと感じて妙に嬉しかった。同級生が同様の状況にあるのは仲間意識だろうか?
「俺は飲めるが、お前が飲めないなら、一緒にお茶でも飲もうか?」
「ありがとう。そうだな、会って話すだけで楽しいかもな?」
どうやら我々は「茶飲み友達」になった。

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