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【パワプロ2022・架空選手】根本 将一【パワナンバー】

根本 将一(ねもと しょういち)

塩山工業高校 - 陸軍第32歩兵師団(1936 - 1967) - 西松スキュアス(1968)

伝説の1000本塁打男

 八島帝国におけるプロ野球の歴史は実はそれほど長くない。野球が伝来して以来野球文化は広まりを見せたが、その流れを作ったのは陸軍だった。
 陸軍が軍拡を進める中で各陸軍師団で野球を趣味とする軍人が集まり野球チームが構成され、それぞれの陸軍師団での対抗戦も定期的に行われるようになり、陸軍野球大会としてそれらが全国各地で行われるようになった。
 リーグ戦も開かれるようになり、全国一位を決める大会は金獅子杯と呼ばれ全国からファンが集まった。野球文化が全国に伝播することとなったのは意外にも陸軍がきっかけとなり、金獅子杯は陸軍公認の下行われる公式大会となった。
 そして軍拡で徴兵が積極的に行われることで当時の我が国のフィジカルエリートたちはほとんど陸軍へと行くこととなり、陸軍野球は国内で最もハイレベルな大会と評されていた。当時は野球をするために陸軍に入るというのもよくみられた光景であり当時の軍拡の流れにある種野球を利用したと見ることもできる。

 1920年3月28日、根本将一は八島帝国北原県北原市塩山村の貧農の家に三男として生まれる。塩山工業高校に進学した彼は野球部に所属、エースで四番として活躍したが、高校卒業後は技術者として就職することを考えていた。しかし折から起こった飢饉により家計を支えるため高校を中退、陸軍に志願した。
 1936年に陸軍第32歩兵師団に配属された根本は野球経験があることから32歩兵師団の野球チームに当然のように参加した。投手を務めつつ中軸打者を担った根本は一年目から二桁本塁打を記録。その後三塁に転向し順調に数字を伸ばした。
 1940年から始まった東方戦役により陸軍野球はシーズンを中断。1944年まで根本はキャリアを中断せざるを得なくなった。1945年から開始されたシーズンでは戦争で多くのスター選手を失った悲しみを吹き飛ばすかのようにホームランを量産、根本は数少ない戦前のスター選手として戦後陸軍野球を牽引した。
 1950年にはシーズン60本塁打を記録し陸軍野球界初の記録を達成、翌年には62本塁打でキャリアハイを更新し新たな歴史を築いた。
 しかし1955年にはプロ野球が発足し、戦後の軍縮の流れもあり生き残った陸軍野球のスター選手たちの多くは新生プロ野球に引き抜かれ離脱していくこととなった。その中にあっても根本は陸軍に残り陸軍野球界の希望の星として本塁打を量産し続けた。だが当時の野球ファンの多くは「根本がプロ野球入りしたら何本ホームランを打ってくれるのか」という話題でもちきりで陸軍の野球経験者はプロ野球と自由に契約が可能だったことから引き抜き合戦が相次いだ。陸軍野球はテレビ中継もないことから人気が衰退していった。
 現役27年目を迎えた1967年、通算999本塁打で迎えた47歳のシーズンも根本は.252 21本塁打を打ち通算1000本塁打を超えた唯一の選手となった。成績は落ちていたものの未だに主力打者であることは変わらず、ファンからの人気も根強かったもののこの年シーズン終了後突然の現役引退を発表した。そして翌年からのプロ野球挑戦を発表。「人生最後の挑戦」として陸軍を退役した。最終階級は軍曹。

 1967年のシーズン中から西松スキュアスの編成部は根本に接触していた。スキュアスは万年最下位球団、球界のお荷物とすら言われており不人気に定評があった。そんなチームが国民的スターだった根本を獲得することでチームのファン増加に期待していた。
 1968年、48歳でプロ野球に入団した根本は史上最年長ルーキーとなった。通算1000本塁打の実績もあり開幕前にファンの期待は否が応でも高まる。開幕戦、根本は四番ファーストで出場、本拠地球場は満員のファンで埋め尽くされた。

パワナンバー : 10900 10903 66380

 開幕戦最年長スタメン記録を達成するとその後も出場を重ねたがすでに陸軍野球よりもプロ野球の方がレベルが上がっていた。速球には手が出ず変化球に空振りを重ね初本塁打が出たのは開幕から93打席目と自慢の長打力は鳴りを潜めた。
 一方で陸軍野球よりも質が高い道具を使えたことでバットコントロールが光り、プロの変化球に対応し始めたことで成績が上向き始めた。特に得点圏打率.391はリーグ最高成績をたたき出し、シーズン終盤には三番打者に定着。最終成績は.242 8本塁打 74打点でクラッチヒッターとして活躍した。後半戦は本塁打のペースも増加し来季への期待も高まっていた。
 しかし全体的に数字は物足りないという印象は否めず、チームの順位も4位に終わった。終盤には適応していたとはいえ不満足な結果に終わったことからシーズン終了後に根本は引退を発表。西松スキュアスは50歳まで現役を保証していたが契約途中で引退することとなった。

査定のあれこれ

アーチスト

 通算1000本塁打補正。ホームランはそんなに出てないけどやっぱりこれは付けとかないと失礼に当たるし。

チャンスA、ダメ押し、いぶし銀

 得点圏打率の高さ。ライト前ヒットでタイムリーを打ってるイメージ。でもまあチームは弱いし、別にそんな大事なとこで打ってるというわけでもないという感じ。

流し打ち

 「芯のないようなバットで打ってきたから芯のあるバットはヒットが打ちやすくて最高」との発言。逆方向へヒットを打つ技術に優れていた。

アウトコースヒッター、変化球〇

 ベテランなので速球への対応力に問題あり。ただ外角のカーブをうまく一二塁間に打ったり、チェンジアップをうまく引っ張って長打にしたりしてるイメージ。本人も「一番得意なのはカーブ」と語っていた。

対左投手B

 左投手相手には安定して結果を残していた。

窮地、併殺

 基本はバットコントロールに優れていた打者。プロ入り後も三振は多くないがそのせいで併殺が多くなってしまった。本人も「球筋を見極めてから打つ方がホームランが出やすい」と語る。

盗塁F、走塁F

 従軍時の負傷により慢性的に膝を痛めていた。全力疾走はできず、常に鎮痛剤を使いながらのプレーだったと後に語っている。特にベースを踏む、スライディングなどはかなり慎重で走塁面においては大きなマイナスとなっていたようだ。

送球G、エラー

 膝の古傷もあり守備力はかなり落ちていた。プロ入り前年には陸軍野球で三塁を守ったとも言われていたが実際にはほぼ守れないレベルの守備力であった。
 また肩も従軍時の酷使により負傷、送球に致命的な問題を抱えていた。オープン戦で1試合4失策するなど守備には問題を抱え一塁に専念。

人気者

 腐っても元スーパースター、ファンからの人気は絶大だった。スキュアスの観客動員は大幅に増加し目論見は成功した。

エピソード

 陸軍野球時代はかなり極端なクローズドスタンスで逆方向への長打力を武器にしていた。プロ入り後は厳しい内角攻めにあったことでフォームを変更。
 引退後はコーチとして指導することを期待され、実際に何度か打診されていたが地元に帰り野球とは関わらずひっそりと暮らしていた。1988年にキャンプの臨時打撃コーチとして復帰することが発表されたものの本人の体調不良により断念。1992年、老衰によりこの世を去った。
 根本の死後その実績から野球殿堂入り、特に野球文化が全国に広まるきっかけとなったことが評価された。

 アマチュア球界とはいえ通算1020本塁打はもちろん世界記録。陸軍野球が開催されなくなったことで年間62本塁打もアマチュアを含めた野球大会での記録となった。その他歴代最年長ルーキー、最年長開幕スタメン、最年長四番打者、最年長本塁打など最年長記録の多くを保持。伝説的野球選手として今も記憶されている。
 1940年から1944年までの5年間を戦争でキャリア中断をやむなくし、その結果最も肉体的に優れていた期間を野球に費やすことができなかった。このシーズンが無事に行われていれば通算本塁打は1200本は確実に超えていたと言われる。また従軍中の負傷で戦後は満足に守備ができなくなった。戦前は三塁手として活躍していたが戦後は一塁に専念せざるを得なくなる。
 負傷で体も満足に動かない中で戦後60本塁打を記録したのはまさに執念と言える。後年「一塁は打撃しか求められないポジションだから重圧があり個人的には好きではなかった」「チャンスで打てなければ殺されるぐらいの覚悟で打席に入っていた」と語る。
 突然のプロ入りについては契約内容もさることながら軍縮とそれに伴うトーナメント縮小で対戦相手のレベルが下がり前述のような緊迫感を感じなくなってしまったことが原因と語っている。それでも陸軍野球に残り続けたのは前人未到の通算1000本塁打を達成したかったことが目的。

ひとこと

 僕が昔からずっと妄想で設定を練ってた野球選手がパワプロで実体化しました。野球選手として素晴らしい才能を持っていたけど時代に翻弄されアマチュア球界で多くの実績を残した男です。最後のプロ挑戦もなんというか本人が望んだ形ではないという感じも。
 フル出場ついてますし代打〇は付けるつもりがなかったので基本スタメンで使ってください。たぶん出塁したらものすごい勢いで後ろのランナーを渋滞させると思います。

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