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なぜ野鳥に餌をやると楽しいか─「力」の存在

私は大学時代、アパートの前のとても小さな公園があってそこに集まる小鳥に餌をやっていた(公園の規則には反していない。念の為)。私は今インコを飼っているが鳥は思いの外賢く、一週間もすると「こいつは危険じゃない!」とわかったのか餌を求めて鳥が寄ってくるまでになった。

その時私は純粋に楽しかったのだが、今になってなぜ楽しいのか考えるとそれは餌を通して鳥を征服し、生殺与奪権を握っていたからではないか。

餌を求めてやってくる鳥は完全に弱者である。私から餌をもらうために媚びへつらう存在だ。そのような弱者に餌を恵んでやる。これは直接的に命を与えるようなものだ。私の気まぐれな判断で餌をやらなかったら、餓死してしまうかもしれない。もちろん実際の野鳥はしたたかで、餌をもらえなくなれば他の場所で餌を探すだけだが、それでも餌をやることで一時的に鳥たちの命を構成する一要素に食い込むことはできる。

食料を出すことで生殺与奪権を得る。これは愉快だ。簡単に強者になれる。家でペットを飼うのも、アフリカの内戦地帯で難民向けに炊き出しが行われるのも根本的にはこれから来ているのではないかと思う。食料を求めてやってくる人間にそれを与える。ペットや難民は先に述べた鳥たちよりか弱い。ペットは飼い主から餌をもらえなければ餓死するし、難民も援助なしには死んでしまう。野鳥のように自由に空を舞うこともできない。食料を施すことはそのまま相手の生命を握ることを意味する。その他人の命を握っていることこそがむき出しの暴力、それこそが「力」と呼ばれるものの究極的な要素なのだと思う。この「力」を欲し、人はペットを飼い餌をやり、難民に食料を与え、私のように野鳥に小鳥用のシードやペレットを撒く。ナチスやソ連の収容所で餓死・病死させることを狙っているのに少量の粗雑な食事を出していたのもこの「力」に関係があるのではないか。収容所での食事はほんとうの意味で相手の生命を握るものだからだ。

この「力」は食料以外でも様々な場所で見られる。人事課が社員をチェックする時、人事課は平社員の会社生命=人生を握っている。具体例をあげればトンボ鉛筆の人事担当者佐藤は就活生に高圧的なメールを送った。(詳しくは「トンボ鉛筆 佐藤」で検索)この時佐藤は就活生の未来を握っていた。就活で精神をやんで自殺する者がいるように、就活とは自身の明日(みらい)を、明日の命をかけて行う残虐なゲームである。トンボ鉛筆の佐藤はこの就活を通してまさしく就活生の命を握り、有頂天となっていたのだろう。私が野鳥に餌をやっていい気になっていたのと同様だ。そこには「力」が存在した。

また「力」の最も大きな発露は子育てだろう。赤子は何もできない。赤子の生命を握るのは親だ。親が育児放棄や虐待をするのは「力」に酔いしれている面があるのではないか。幼い我が子に食事を与えないことで、「力」を感じるのである。生殺与奪権を感じるのである。某幼児は虐待の様子がスマホで撮影さえ夫婦間のラインで送り合っていた。相互にそれを行い、自身の「力」を再確認して悦に浸っていたのだろう。そして、その暴力的な体現の行き着く先は我が子の死亡だ。そこでニュースになる。だが死亡しない程度の、ニュースにならない程度の虐待を受けて育ってきて、それを家族の恥だと思って公言してない者もたくさんいるだろう。

我々は「力」にとらわれている。私は野鳥に餌をやり、インコを飼っているだけなのでそれほど「力」を行使していないが、状況が転んでいつその暴力的な面を表すかもわからない。ディルレヴァンガー事件(猫を虐待死させた事件)のようにインコを虐待死させてしまうかもしれない。これも「力」の発現の典型例だろう。そうならないように戒めを持ってこの記事を書いた。みなさんも「力」に気をつけよう!


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