忘年会等の宴会に見る日本の飲酒文化

また今年も忘年会の時期がやってきた。最近の若手社員達は忘年会、というか会社の飲み会自体を嫌悪する。気持ちはわかる。高い金を払って上司に文句を言われる飲み会なんてくそくらえである。

ところでなぜ人は酒をわざわざ飲んで交流するのだろうか。シラフでもいいはずだ。

人類史で酒が広く登場し、文化として飲まれ始めたのはメソポタミアのシュメール文明で今から5000年ほど前である。(もちろんこれ以前にも人類は飲酒をしていた。)シュメールでは原始的なビールが大量に飲まれ、ビールを飲むことこそが文明人の証とされるまで根付いていた。

このシュメールでの飲酒文化は主に栄養の摂取という面があった。ビールはカロリーが高く、栄養が不足がちな古代では貴重なカロリー源だった。

シュメールから数千年たち、古代ローマと対立したゲルマン民族はシュメールとは違った飲酒文化を築いていた。ゲルマン民族のことを著したタキトゥスの『ゲルマニア』によれば、ゲルマン民族は会議の場で大酒を飲み酩酊する。その酩酊状態で行う会議は本音が出るため、シラフで行う会議より尊いものだとされた。

このゲルマン民族では酒で酩酊することを良しとしていたのがわかる。むしろ酩酊するために飲んでいた。戦術のように会議の場では儀式として宴会をする。つまり酒が儀式の中に組み込まれていた。

日本の飲酒文化もゲルマン民族に近い。日本では神に捧げた酒を一つの大杯に入れ、みんなで回し飲むという直会(なおらい)がある。酒で酩酊することで神と一体化する(という感覚を得る)という仕組みだが、とにかく日本でも酩酊は神と一体化する儀式で使われていた。

今の日本の飲酒文化はこのような特徴を受け継いでいる。酒で酔えばコミュニケーションが促進する、と考えるのは脳が酒で麻痺し上機嫌になり、酔いが進めば(ゲルマン民族のように)本音が出るとされているからだ。更に冠婚葬祭の飲酒文化は…言わなくてもわかるだろう。酒は儀式の場で飲まれる。もはや現代日本人が神を信じていなくとも、である。

日本では、酒によってもたらされる本音は、ゲルマン民族と同じく「良いもの」とされる。日本人の持つ独特の文化によるものだ。欧米人のようにはっきり言わず、「本音と建前」を使い分ける日本人は普段建前しか言わないだろう。ところが酒によって本音が引き出される。この本音を大事にするのだ。まさしく「腹を割って話す」である。お互い泥酔して本音で話すことが飲酒の場には期待されている。

加えて、酒が本質的に毒だというのもある。アルコール耐性が遺伝的に弱い日本人にとっては特にそうだが、酒は本質的に毒である。飲みすぎれば二日酔いや悪酔いといった不快な症状がもたらされる。かつては「酒は百薬の長」と言われたが、最近の研究では少量でも身体に害があることが判明している。この毒物をみんなで飲む…この行為は一体感を生む。アメリカの若者の間で大麻の回し吸いが結束を固める行為なのと同様、身体に悪いものを大勢で飲むことは一種の快楽を生む。下戸でアルコールが飲めない者が、上司などに無理やり飲まされて潰れる様子を見たことがある人はいるだろう。あれは「毒物を共に飲む」という一種の儀式に強制的に引き込もうとした末の結果である。私はこのようなアルハラには反対だが、儀式としてはみなが毒を飲まなければ成り立たない。そこで儀式を崩す=酒を飲まない者はこのように飲まされてしまう等の危険があるのだ。

また、酒=毒ということは、同時に酒に強い=身体が強いという誇示行為にもつながる。古来男の価値は肉体だった。肉体が優れていれば、狩りで獲物を得られる可能性が高くなる。つまり肉体の良さはそのまま生命の維持とダイレクトに繋がっていた。時が進むと、男のアピールポイントは知性(とそれに伴う高年収)に移ったがそれでも細マッチョは女性に人気である。ともかく酒耐性が強い=身体が強靭という図式が飲酒時には成り立つ。酒が強いものが尊敬される背景には、このような図式が無意識レベルであるからだと私は考えている。男は誰でも肉体の強さを(酒で)アピールしたいものなのだ。そうすればモテると信じている。(ここではホモソーシャル的な側面もあるが、ここでは扱わない)

と、ここまで飲酒の持つ要素をつらつらと書き出してみたわけである。私も忘年会をいくつか控えている。そこでは私が書いてきたような酒の側面(本音を引き出す酒、毒としての酒、身体の強靭さを示す酒)をこれでもかと味わうだろう。みなさんも二日酔いにならない程度に酒という名の毒を摂取しよう。それでは。

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