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粘液姉さんと夕暮れの街3


 フクロムシの一件はそのままに、次の週末がやってきた。平日はこの街にひとつしかない学校で勉強をしている僕だが、休日で姉さんの出勤もないと暇になる。
 そういう時には、家政婦さんと散歩と称して買い物に出かける。犬に異化した家政婦さんは大きな首輪をつけて街を歩くのが癖だ。犬としての性質で散歩しないと脳や神経系に影響がでるらしいので、暇な休日は僕のベッドで寝ている姉さんをそのままに家政婦さんと一緒に出かけることになるのだ。
「それでも、首輪にリードは必要ないと思うんだけれど、どう思う?」
「必要不可欠ですね。犬の散歩と言えばこれです。私の首にたくましい首輪をつけていただいて、ご主人様にリードを持って頂く。これぞ犬に異化した私にとって至福の一時と言えるでしょう」
 家政婦さんは黒のスキニーに爽やかな柄のサマージャケット。彼女の身長が高いこともあって、僕はちょっと見上げるようにして顔を見ることになる。少し長めの黒髪を毛先より上辺りでまとめてうなじが少しだけ見える。そこに首輪を嵌めて、リードを僕に持たせて喜ぶ家政婦さん。
 この街の外でこんな姿を見たらちょっと近づきたくないであろう二人なのは間違いない。それでも、家政婦さんが喜ぶのであればいいかなと思う。恥ずかしいけど。
「今日はどこに出かけましょうか。公園から駅前を通って図書館でも行きます?」
「僕には特に希望がないし、そっちの行きたい所でいいよ。図書館によって本を借りられるのならそれがいいけど」
「それでは、いつもと同じルートにしましょうか」
 散歩なので大体の行き先もある程度決まっているけど、家政婦さんは散歩の終着点に図書館を選ぶことが多い。姉さんの補助として知識を蓄えるのと同時に、出不精な姉さんの代わりに本を借りに行くのだ。僕も本をよく借りにいくので図書館は我が家にとって欠かせない公共施設になっていたりする。
 ただ、姉さんのような湿気そのものであったり、液状の物質を本にかけてしまうような利用者にはかなり厳しいので、姉さんと一緒に行ったことはないけれど。
「では、リードを私の首輪につけてください。私がご主人様から勝手に離れないように。まさしく犬のように!」
「そんな風に言われると、なんだか変な雰囲気になるからやめようね」
 家政婦さんの微妙な冗談から逃れつつも、僕は前から借りていた本をまとめて鞄に入れた。


 電柱にかけられた送電線の向こう側に見える朝空は霧に覆われぼんやりと辺りを照らすだけで、周囲に立ち並ぶビルの窓も陰りを見せていた。街中には小さな公園や好みの店もあるけれど、概ねは異化した人達が勤める企業の支店として機能している。異化に関する理解はいまだ残念なものだが、福祉関連は意外にも整っていた。
 それは異化が隔離を必要とする感染症であるという誤解が広がったからだ。街の中に留まっていて欲しいという周囲の考えと異化した姿を街の外に晒したくないという本人の考えが絡み合って、色んな支店や支部がこの都市では多い。
 その中でも家政婦さんが贔屓にしている輸入食料品店に立ち寄る。いわく「意外と食事には気をつかっているのです。消化に悪い食品を使うと食材が透けて見えてしまう方がおりますし」ということらしい。そういったことを僕に伝えながら食料品店に入る家政婦さんの顔つきは柔らかだ。心なしか口の中で舌をもごもごと動かしているようにも見えて少し残念な女性にも見えてしまったけれど。
「今日の目当ては蒸しパンの為のベーキングパウダーと小麦粉ですが、チョコレートも安いですね……」
「ここのチョコが割と好きだよね。チョコって犬に有害なテオブロミンが入ってたと思うけど」
「チョコレートが犬に良くないなんて知ってたんですか」
「気になって調べたことがあるからね。それで、どうなの?」
「この店のチョコはその辺りに配慮されたものもあるので安心して食べられるんですよ。食べられないものも個々に異なりますから、食品に含まれる物質には常に気をつけています。もちろん足りないものもありますけれど、配慮の行き届いたお店というのはそれだけで素晴らしいものかと」
 耳元で囁くようにして家政婦さんは僕の疑問に答えてくれた。彼女の首につながれた綱を持っているためか、距離感は妙に近い。それも会話するときには腰をかがめて僕の耳元でひっそりと話すものだから、緊張するのは仕方の無いことなのだ。犬の習性なのか彼女の癖なのかわからないが、家政婦さんは昔から姉さんや僕の身体に触れることが好きで、粘液の塊に近い姉さんの体内に入って息ができなくなっていたりもした。
 僕達の距離感がなんとなく近いままで過ごしていると周囲から邪推をされることもあり、親友なんかは子供と近所のお姉さんなんて馬鹿にされる。僕はこれでも外で言う所の高校二年生なのだから、もう子供とは言えないだろ。
「大丈夫ですか? 少し、ぼうっとしていたようですが」
「どうでもいいことを考えていただけだよ。学校でちょっと子供っぽいって思われてたこととかさ」
「老けていると思われるよりはいいと思いますけれど。この間、私が成人していると思われたようで煙草を差し出された時にはどうしてやろうかと思いましたよ。そもそも犬に異化している私に刺激臭のきついものを向けるなんてありえないです」
 ちょっと似合いそうだなと思う。見上げるような背にジーンズを好む彼女は颯爽としていて咥え煙草なんてしていれば、それこそ一昔前の映画なりドラマなりの俳優にみえるだろう。犬耳だけどそういう格好良さもあるだろうし。
「それで、目当ての品は見つかった? それとも見て回ってる所?」
「ショッピングとは欲しい物が見つかるまで適当に見て回るものだと思っていましたけれど……ええと、退屈でしたか?」
 そこで聞き返されると、割と困る。この街だからある程度は見逃されているけれど、年上に見える女性と僕みたいな学生が一緒にウインドウショッピングしているとなると、なんとなく周囲の目が気になってしまうのだ。気のせいだとは思うけれど、やっぱり気になってしまう。
「ショッピングにしてはスリルを感じてるから退屈ではないよ。学校の友人に見られたらと思うと嫌な汗まで出てくるけど」
「ご友人ですか。ご主人様から友人関係の話題を聞くことは殆どありませんでしたが、親しい方がいらっしゃられるので?」
「僕を友達いない奴みたいに言わないでくれ」
 これでも周囲とはそこそこに付き合っている。異化していないからか学校でも特殊な奴といった扱いをうけてはいるがそれだけだ。クラスメイトと食事することもあるし、友人と一緒に出かけることもある。姉さんのことがあるから頻度が少ないだけで。
「友人はともかく買い物は楽しめてるよ。こういう所だと食料品に色んなパターンが見られるしね。栄養ブロックだけで二百種類以上あるみたいだし、僕には想像できない世界だ」
「栄養素の問題は常にありますから。飢餓よりはなにがしかの中毒や不足で病院に担ぎ込まれる方が断然多いんです。女史……お姉様にも関わる大きな問題です。栄養、環境、社会性は異化患者の三大問題ですよ」
 何を食べればいいのか、どこに住めばいいのか、周囲にどう合わせるか。その三点が異化における問題として転がっているということなんだと思う。フクロムシの患者さんだってそうだ。寄生生物は生きていく為に周囲の環境に対してわかりやすい形で害を及ぼす。これが一般的な生命であるのなら環境に合わせて、誰にも見えないように害となる要素をそうでないように見せかけることができる。いわゆる擬態という奴だ。
「食事だってなんとか誤魔化して食べることができたり居住区も使える部分だけを使ったりと、その場しのぎができれば後はなんとかできるけど、その時点で周囲と噛み合わなかったら生存競争になるんだろうな」
「いわゆる社会性の違いというものです。音楽性と異なり、グループ解散ではなく戦争になる違いですが」
 すこし得意げな笑みで家政婦さんが僕に話しかけるが、今日はおかしな発言ばかりだねとしか僕は言うことができなかった。


 輸入食料品店を出て、色々とウインドウショッピングを楽しむ。よくわからない店でも興味津々で入っていく家政婦さんと一緒だったが、距離感や緊張でドキドキせざるをえない。僕は生返事をするのが殆どで、家政婦さんとの散歩を楽しめているというよりは犬に引きずられて進むダメな飼い主みたいだった。服に化粧品に古書に骨董品と統一感のないお店巡りにくたくたになるまで疲れる。
「ご主人様に荷物を持たせてしまう程買ってしまうとは思いませんでした……。申し訳ありません」
「片手にビニール袋一つくらいだから大丈夫だよ」
 家政婦さんは両手に衣服の入った紙袋を四つ抱えながら、僕を心配してくる。女性に荷物を持たせている訳だから、ほんの少し違和感を感じるけれど、片手にビニール袋、もう片方の手で家政婦さんの首輪に繋がっているリードを持っている時点で違和感も何もないと思ったので、口をつむぐ。本当にペットのような扱いだと思うが、彼女がこういった遊びを本当に好んでいるのかもしれないし。
 だからといって、この格好を友人に見られるのは本気でご遠慮願いたいけれど。
「そろそろ図書館ですし、お茶でも飲みながら休憩しましょう。ご主人様の好きなカフェ・ダブルモカが待ってますよ。ちょっとしたお菓子くらいなら、いくつか持っていますし」
「それはいいね。休みの日の昼前に図書館の休憩室でコーヒーを飲みながら、色々と読もう」
「今日はご主人様のお姉様から貸し出しカードを借りていますから、私もいくつか借りれますよ。ちょっと楽しみです」
 家政婦さんは利用カードを財布から取り出して、ふわりと微笑んだ。料理や家事に関する本も読むけれど、彼女は古い怪奇小説とか科学小説が好きだったりもするから、僕が本を借りる際に読んでいたりする。それも今日までの話だけど。
「今日は図書館のカードを作ろう。家政婦さんも色々と借りたいだろうし、身分証の問題も解決したしね」
 これまでは戸籍の関係で身分証らしいものを家政婦さんは持っていなかったけれど、姉さんが最近なんとかしたのだ。戸籍を偽造したとかそういうのではなく、異化患者になった際に本人証明が難しくなった書類を整理したりとか、そういうの。
「うまく言葉に出来ませんが、その……嬉しいです。自由に本を借りて読めるなんて昔では想像したこともなかったですから。これからは、私もこの街の人間なんですね」
 そう言って顔を背けたけれど、彼女に隠しきれないほど笑みが浮かんでいたのが見えた。昔に何があったのか、とか。そういうことを聞けば教えてくれるタイミングだったのかもしれないと思ったけれど、聞き返すことはしなかった。家族の言いたくないことを掘り返したくないってその時は思っていたのだ。