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粘液姉さんと夕暮れの街6



 学校の帰り道でスーパーに寄り道する。家政婦さんに頼まれていた特売の品として、いくつかの中和剤と洗浄剤。姉さんと一緒に暮らしてると切らしやすい生活用品だから仕方が無いけれど、洗浄剤の善し悪しがなんとなく分かってきているのに微妙な気分になる。そんなことに詳しくても、姉さんと暮らしていくこと位にしか使わないし。今の暮らしでは必要なのは間違いないので、別にいいんだけれど。
 普段から使っているスーパーで、食料品をカゴにいれつつぼんやりと考える。今は姉さんや家政婦さんと一緒に暮らしているけれど、学校を卒業したらどうするのか。異化していない僕は外に出て行くことも十分考えられる。ここでの生活から一変して、普通の社会人として、異化から離れて生きていく。
「想像できないな……。姉さん達の傍を離れて生きるなんて」
 姉さん。家政婦さん。僕の生活は家族によって支えられている。親なんて会ったことがないから、僕にとって家族とは姉さんと家政婦さんのことを示す。その二人から離れて生きていくのを考えると、寂しさがある。そして、それ以上に違和感を感じる。二人と離れることに対する違和感を。一生の別れでもない、ただの姉離れにどうして違和感なんて感じるのかはわからないけれど。
 逆にここに留まって生きていくというのは、異化と関わって生きていくということになる。それは、この街で生きていく限りは折り合いをつけないといけないことなんだろう。自分が自分とは違う生き物になるということと、自分は変わらないということに。そんなことを考えていると、スーパー近くの公園を通り過ぎてしまい、慌てて引き返そうとする。そこで、待ち合わせの相手に声をかけられた。
「先日ぶりですね。弟くん」
 ベヒモス看護士。特殊極まりない病棟内を闊歩する特殊極まりない看護士さん。
 僕は彼に、姉さんのこと、先日会った患者さんのこと、異化のことについて聞くために連絡したのだ。
「異化とは何か、ですか」
 ベヒモス氏は早速、首に手を当てながらうなり始めた。どうやら一言で言い表せるようなことではないらしい。
「結局はホモサピエンス、純粋な人間という種から別の種へと変わることを指しています。”別の種”というのが既存の生命であるパターンが大半であり、それらと人間である要素が混じり合って純粋な人でも別の種でもない”新たなる種”として生きる訳ですが……そうそう上手くいく訳でもありません。五感の喪失、四肢の不全、生命機能の失陥。異化した彼らの殆どは人間の頃は持ち得なかった機能を得る代わりに、人間として生きる機能がずれていきます。なので、異化した彼らの事を、我々の病院では「異化患者」と称するのです」
 一息にそう言うと、ベヒモス氏は額に手を当てる。彼の腕は肥大化しつつも分厚い皮膚に覆われており、象の皮膚にも見える。だが、彼は4m近い長身なのだからキリンといった背の高い生き物から異化したのかもしれない。大きすぎるベヒモス氏は、複数の異化を経ているのではないか……という風に僕は睨んでいるが、彼の口から直接聞いたことはない。
「種としての統一感はありませんし、異化する先も選べません。それこそ、病気に罹るようにして異化とは起こります。その結果として、まっとうに外出もできなくなるようなタイプの人もいます」
 その分かりやすい例が、六〇一号室の彼女。フクロムシに異化したカナメさんなのだと言う。
「ただ、彼女の場合は女史曰く「治療は不可能だが対処療法はある」とのことです。フクロムシという種の特徴としては、四肢を失った後に他者に寄生し疑似的な親子関係を構築するというものになりますが、彼女がその性質をどこまで持っているかという問題もありますしね」
 男性に寄生して女性にするという最も特殊な性質まで持っているかもしれませんが、と苦笑しながらベヒモス氏は言うが、かなり笑えない話である。僕は彼女から聞いた肯定的な異化の見方の話もしてみる。つまり、異化することによって得る純粋な人には無い機能について。
「そうですね……例えば女史であれば、粘体として体内の診察が非常に手軽にできるようですし。自分も引っ越しの荷物運びの時なんかは楽ですよ。力持ちですからね」
 彼は微笑んだまま答えてくれるけれど、あんまり異化することによる便利さは感じていないようでいて……僕は。
「やっぱり、異化することはベヒモス氏にとっては辛いことだったりするんですか」
 つい、そう聞いてしまったのだ。
「…………」
 ベヒモス氏は僕の質問を聞くと、ぐっと眉をしかめつつも曖昧に笑っていた。そうして何度か口を開こうとしては閉じて、そのまま何も答えてはくれなかった。その姿を見て、僕は初めて聞いてはいけなかったのだと気付いたのだ。異化したかった訳でもないのに、異化してしまったのなら。それに慣れるしかないのだと、エメリャノフから聞いていたのに。
「すみません。聞くべきではなかったですね」
 反射的に僕が謝ると、ベヒモス氏は硬い手のひらで頭を撫でながら、静かに笑ったままだった。
「そう、そういえば六〇一号室の彼女についても聞きたいそうで。何か関わりが?」
 しばらく気まずい沈黙が続いた後、ベヒモス氏から話題を逸らしてくれたからか少し息を落ち着けることができた。
「いえ、図書館で顔を合わせただけですが、問診のときに異化に肯定的だったり図書館での顔合わせの時にも同じ話をしたので、気になってしまって」
「彼女の影響をうけたと?」
「そうですね。そうかもしれません」
 彼女の思想に対して、矛盾を感じているというか。間違っているのに彼女を信じようとしている、というべきか。ベヒモス氏はそれを聞くと、テーブルから細かく書かれた書類を引っ張り出すと、書き足しだした。
「・・・・・・フクロムシは生態として相手を支配して、自分を保護させようとする寄生虫です。その際には自分を守らせるために雄を雌に近しくさせることすらできる。フクロムシへの異化が彼女自身に強く影響されているとするならば、あるいは」
 そこでベヒモス氏は区切ると、患者に告げるように呟いた。
「弟くんが寄生対象として見られているのかもしれません」


「つまり、おとーとがいもーとに?」
「素敵な未来ですね。美人姉妹に家政婦が一人。そこに忍び寄る怪しげな人影。奥さん・・・・・・宅急便ですよ?」
「何を言ってるんですか二人とも」
 夕食の時間はビーフシチューと共に混沌としていた。食べ慣れた家政婦さんのシチューが姉さんの身体の中で渦を巻いて流れていく。食事の為の器官について詳しく聞いたことはないけれど、姉さんが食事をするときは見えない所で溶かしているようだ。いつのまにか、綺麗な姉さんの色に戻っている。逆に家政婦さんは食べるのが遅い。いつも落ち着いてゆっくり食べて、食べ終えてすぐに僕達の食器を洗っているのを見ると申し訳ないという気持ちになる。僕が洗い物をすると、家政婦さんは嫌がるからしないけれど。家政婦さんの仕事だし手出しするのもね。
「でも、おとーとはちゅうい。へんなのにすかれやすいし」
「そうですね。私も彼女には違和感を感じました。ご主人様しか目に入っていないというか、私がいないもの扱いというか」
「ぶれいもの-。そこになおれ?」
 首をかしげたかのような身振り手振りが、やたら可愛くて姉さんだなと思う。家政婦さんと一緒に和みながらも、気になった所に口出しする。
「図書館で会った時には姉さんがいなくて、知り合いが僕しかいなかったからじゃないのかな」
「いえ、そういった単純なものではないです。私に無関心というよりはご主人様に熱意があるというか。率直に言って一目惚れした女子高生みたいな生き物でした。ラブの気配がします」
 家政婦さんは食卓から立ち上がり、肩を抱くようにして僕に視線を向ける。背の高さに見合う大きな胸がひじに当たってやや凹む。正面から僕の事を観察しながら胸を動かされるので非常に自制心がいるけれど、姉さんが教育に良くないからと言って来客用のスリッパを家政婦さんに投げつけて場をごちゃごちゃにする。家政婦さんは頻繁に女性的なしぐさというか、気まずくなるような事をしてくるけれど大体は冗談なので困ってしまう。冗談じゃなかったら、もっと困るけど。
「まったく。女史はビーフシチュー食べているときにスリッパなんて投げないでください」
「なげたくもないけど、なげないとこまるでしょ」
 姉さんがそう言うと、家政婦さんも納得したのか頷くと座り直してから違和感についての話に戻る。二人の意見をまとめると「初めて病院で会った時から僕に一目惚れをしていて、図書館で偶然出会って戸惑いながらも話ができたけれど、次の約束を結ぶことができなかったので、今頃ベッドの上でじたばたしている女の子」が六〇一の彼女、カナメさんの正体らしい。
 うん、やっぱり二人の意見はまとまりがない。彼女が僕に一目惚れしているとか、信じられないし。
「実際のところは話してみなければ分からないでしょう。女史と一緒にいる時に話しかけてみるなり、ベヒモスさんに頼るなり、やりようはある訳ですし」
「でも、ふたりきりはだめ。フクロムシのこともあるから」
「わかったよ。姉さんも家政婦さんもありがとう」
 この時の忠告をしっかり聞いていれば、と今では思う。でも、二度も会うなんて考えもしていなかったのだ。それも、家政婦さんが買い物に出ていて家で一人きりなんて状況で。