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粘液姉さんと夕暮れの街1


 口を覆った粘液による呼吸困難で叩き起こされた。
 粘状の寝床だったものを服から床にひき剥がしながら、フッ素コーティング加工を施した床に転がり落ちる。形状の変化を可能な限り防ぐこの床は不快だが、生きていくうえで安心できる寝床でもある。プラスチック材に安心するのは、フローリングで寝っ転がった時に感じる心地よい冷たさに近いものがあるのかもしれない。
 肌にこびり付いた粘液を洗い流すために、ごろごろと床に転がってからシャワーを浴びる為に立ち上がった。そうすると、床からくぐもった声が響く。
「おねぇちゃんだよぉ。ちょっとぐちゃぐちゃになっちゃったから、ひろぃあつめてくれないかな」


 床に飛び散った粘液はどうやら姉の発声器官であったようで、しきりに僕の身体にくっつこうとしながら懇願してくる。散らばった粘体を瓶に拾い集めるのは掃除機で集めるより面倒臭い。けれど、掃除機だと姉さんの振動に合わせるようにゆっくりとコーティングが剥がれて床が台無しになるだろう。
 僕は寝室からそっと抜け出すと、姉さんを入れる大きめのガラス瓶の栓を開けて姉さんに向ける。中にずるずると入る姉のへにょりと曲がった腰つきはガラス瓶の中でゆらゆらと動いていて、まるで姉さんはテレビでみたクリオネのようだった。瓶の中に収まって、ゆったりと微睡んでいる姉さんを起こさないように瓶からそっと置くと。
「おとーとのにぉいがはなれる」
 と、姉さんが粘体から声を作って僕に話しかける。姉さんはどろどろしているからか、匂いにとても敏感だ。僕がどこにいるかを五感より先に嗅覚に似たよくわからない器官でかぎ分けているそうで、毎朝の目覚めは姉さんに近づいたり離れたりが基本になる。
「朝ごはんだよ。姉さん。ご飯が姉さんに食べてほしい匂いをしているよ」
「ほんと? うん。ほんとだ。そうぃうのわかるおとーとはすごいね」
 実際分かるはずもないが、なんとなく姉さんはそこらへんが分かるらしい。姉さんの粘体に宿る感覚らしいが、僕には分からないままだしこれからもそうだろう。
「だから、朝ごはんにしよう。うちの家政婦さんも待ってるよ」
「へっへっへーってしただして? おもしろいおとーとはいいこだね」
 姉さんはそういうと歌い始める。聞いたことのない歌はおそらく何がしかの手段で異化患者から教えてもらったものだろう。歌の得意な異化……鳥か蛙か。なんにせよ姉さんは舌足らずな口調で単調な曲をリフレインする。
「とーまと、とまと、とーまと、とまとまとー」
 姉さんが幼児のようだ。そう思っていると家政婦である彼女が首を傾げながらこちらを見ている。姉さんの歌に反応したのだろうか、料理をする手が止まって尻尾が歌に合わせたように揺れている。消し炭のような朝食を食べるのはちょっとやめてほしい所だ。僕は彼女に料理に集中するように言うと姉さんに声をかける。
「姉さん、それはどこの歌? 聞いたことがないけど誰かからまた影響でも受けたの?」
「うん。トマトのうたは、かんじゃさんからね。おいしそうなもののうただって。トマトっておいしい?」
「美味しいんじゃないかな、姉さんが消化できるかどうかは試してみないとわからないけど」
 もし成功したとしたら一面真っ赤の粘液が街中を移動することになる。稼働式血まみれスライム、食事前にしたい話じゃないな。
「ともかく、患者さんからなんだね。今度は何がどうなったの?」
「んー……きせいちゅう、かな。それっぽいのになっちゃったの。おんなのこが」


 姉さんは首をくねらせながらあまり気乗りしない感じのしぐさをしつつ、詳細を語ってくれた。具体的には以下のような形だ。
 街中で一人暮らしをしていた女子学生が何か不味いものに異化してしまった。特徴としては甲殻類、いわゆるエビやカニのようなもものであると類推されているが、現段階でどれだけ異化が進行しているのかは不明。患者は四肢に痺れがあり助けを求めているが、学校に詳しい情報がある訳でもなく、街に一つしかない特殊病棟に入院。ただしその医師でも未だに異化してしまった生物がなんなのかも分からないとのこと。
 原因不明の異化には対処できずに隔離するしかなく、困った医師が異化に関する最先端を独走している姉さんに縋り付いたというのが今回の事情のようだ。
 ここで追記しておくと、異化とは「生物にさらに追加して生物の生態ならびに性質が付随するここ特有の現象」を指していて、この街が海外のような扱いをうけている最大の要因でもある。要するに人間に何かの生き物がくっついたのが異化で、真っ先にスライムのようなものに異化した姉さんはその異化現象における第一人者やパイオニアのような扱いをうけている訳。
 本人は「そのぶんだけ、もんだいもおおいんだけどね」とのこと。
「それで寄生虫みたいなのっていうのはどういうこと?」
「なんとなく。かんごしにべったりで、あまあまなの」カップルか。いや、患者と看護師だけど。
 そうこう話しているうちに家政婦さんが卓に皿を並べ始める。もうそろそろ食事の時間のようだった。僕は瓶から姉さんを取り出して、椅子の上に載せる。姉さんはしきりに身体をふるわせたかと思うと、人型をとって「いただきます」と両手の手のひらを合わせる。
 姉さんの前には溶解しやすいように崩した生肉。僕と家政婦さんはハンバーグの前に座る。
 朝はだいたいこんな調子だ。平日なら朝食を早めに終わらせて学校に、今日のような休みはゆっくりとしながら姉さんの仕事に付き添ったりもする。
 とかく姉さんは足が遅い。粘体状でずるすると移動するしかないのだから動くための足は必要不可欠だ。普段は家政婦さんが姉さんに付き添うが休日は家事なりを優先してもらって僕が姉さんの傍にいることにしている。休みの日くらい、彼女にもゆっくりしてもらいたいと思う。そんな訳で姉さんの休日出勤に同行するのは僕の役目だ。
 留守番を頼み、姉さんを専用のキャリーケースに入れて引きずる。姉さんは人間としての形を保つことができるけれど基本的には粘体なので、移動するためには何らかのキャリーケースなりカートを使わないと殆ど移動できない。粘着質であるのと同じくらい、粘状であるという点は生活するのに不便なのだ。
 ただ、僕は姉さんと一緒にこうして付き添えるから悪くはないと思っている。姉さんは異化現象に関する研究者として狙われることも多く、できれば傍に誰かいた方がいいから。基本的には平日は家政婦さん、休日は僕。非常時には専門のヘルパーがついてくれる。一人で外出するのには向いていないのを姉さん自身もわかっているのか調査や研究の場合を除いて引きこもる性質になっているが、今日は僕と一緒に特殊病棟にお出かけだ。