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3世紀におけるゴート人の侵入

井上文則「3世紀におけるゴート人の侵入」『西洋古代史研究』13、pp.1〜23、2013年。

目次
はじめに
1.3世紀のゴート人侵入の研究史ーその性格を巡ってー
2.ゴート人侵入についての史料
3.ゴート人の侵入ーその歴史的経過ー
4.ゴート人の形成と侵入
おわりに

要旨
 本稿は軍人皇帝時代のローマ帝国に侵入した外敵のうち、ゴート人に注目して考察を行っている。特に3世紀におけるゴート人の侵攻の性格がどのようなものであったのか、さらにそもそも当時のゴート人とはどのような集団であったのかという問題を中心に考察し、この時期の侵入がゴート、ローマの双方にもった歴史的意義についても考えたいと、井上は提起する。
 先行研究を整理したうえで、井上はゴート人の侵入に関する史料について言及している。この出来事を直接のこしているデクシッポスなる人物の『年代記』や『スキュティカ(ゴート戦争史)』は散逸しており、これらをもとにしたであろう史料群がこの話題についていま活用できる史料となっている。
 井上はこれらの史料や先行研究を参照して、ゴート人侵入の経緯の復元する。そして、その復元から通説について肯定できる部分もあると井上は認める。しかしと、否定できるか、もしくは疑義を抱かせる部分もあるとする。それはひとつは、ゴート中心史観ともいうべき見方への懐疑である。「ゴート人の侵入」としたときの「ゴート人」とは、実はゴート人でなかったりその一部にゴート人が含まれていたにすぎない場合があると井上は指摘する。ゴート人が3世紀においてドナウ川北岸の有力な集団であったことは確かだが、まだ支配的ではなかったのだ。
 この結論から、井上は「ゴート人の侵入は民族移動の余波であった」という通説に懐疑的な主張をする。もしそうであるならば、3世紀の侵入事件はゴート人のみであるか、ゴート人が主体の侵入でなくてはならない。しかし実態は、ゴート人は蛮族のワンオブゼムであった。ゴート人はローマ帝国の混乱に乗じて、帝国の略奪を試みた集団であった。この集団は4世紀以後に強大化し、ドナウ川北岸で唯一の、と言ってもよい集団になったのである。
 井上は最後に3世紀のゴート人の侵入の歴史的意義について考察している。3世紀の侵入は略奪目的の一過性の攻撃であった。略奪のためにゴート人の有力者の下に人々が集結し、その過程で新たに「ゴート人」が形成され、4世紀の民族大移動へとつながるのであった。この4世紀のゴート人の強大化には、ローマの肩入れもあった。ローマ人はしばしば支配のために特定の部族に肩入れをしてきた。ゴート人の場合、肩入れがうまくいきすぎた結果として、彼らは過度に強大化してしまった。このように考えるならば、軍人皇帝時代のローマ帝国の混乱と帝国が伝統的にとってきた施策が「蛮族」の強化に寄与し、のちのローマ帝国の衰亡の一因といったことになろう、と井上は本稿を締め括っている。
 


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