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油2、酢1、それから少々の塩と胡椒

仕事の調子が良い。

このところ複数の案件が重なって、多くて5件の仕事を同時並行しなければいけない状況に陥っていた。おまけに予想外の場所から出ちゃいけないものが出る(詳しくは書けないのですが)という事故まで起こってしまい、これははたして無事に今シーズン乗り切れるのか、という状況であった。

ところが、それらの仕事がおもしろいように片付いている。

ひとつが片付けば、ふたつの事案が発生するような複雑な仕事なので、もちろん終わってハッピーということにはならないのだが、「滞りなく前に進めている」快感があった。

飛んでくる球を、バカスカ打ち返せているような感覚。
剛速球を力任せに打ち返すときの、二の腕にはっきりと残る痺れと心地よさ。あー!戦っている、という高揚感。限りなくゾーンに入ったアスリート状態。

もちろん、そうなった理由はいくつかある。
働き方改革で残業が制限されたことから、時間内に終わらせなければならない、という緊張感が生まれた。それはすなわち、結論を出すスピードに反映されている。100%正解の答えなどない仕事で、あらゆる角度からの検証と数値的な根拠をもとに、ある程度間違いない、と言える答えを出す。
これが昔はできなかった。徹夜の残業が推奨されていたような昔なら、考える時間はいくらでもあったから、むしろ誰も結論を出さずにずるずると仕事をしていた。
そのずるずるとキッパリ決別できた今、結論を出すことに躊躇がない。間違っていたら軌道修正しよう、という腹のくくり方ができている。

もうひとつは、軸足を仕事以外の別の場所に置けたことだ。私の場合、通信の大学での勉強と、韓国語の勉強を始めたことだろう。それから、このnoteで書くこともそう。
心にへばりついたモヤモヤを、文章にして整理することで、仕事に向かう気持ちをシンプルに保つことができる。
これは、少なくとも誰かの眼に触れる場所に公開して置いておくというのは、ただ文章を書いて、自分一人のパソコンに保存しておくのとは全然違うのだ。自己満足かも知れないが、私はずいぶん救われている。

***

とはいえ。

調子のいい時、というのは要注意だ。

きれいな波型グラフが描くように、調子のいい時期があれば、次には当然、調子の悪い時期が来る。調子のいい時が大きく好調ならば、波形グラフの波も大きくなり、悪い時期は本当にどん底が襲ってくるものだ。

そうでなくても、フルに活動している脳みその反動は、確実に体にくる。
数日前から、足と腕にもそもそと虫が這うような感覚があって、なんだろうなと思っていた。

そんな時、こんな言葉とすれ違った(保存を忘れたのでうろ覚え)。

――仕事や勉強を、思う存分してはいけない。ブレーキをかけないと、脳が限界を超えてしまう。

あ、こりゃ休もう。休まなきゃダメなやつだ。
はっきりとそう思った。

***

金曜日に有給休暇を確保して、朝は目覚ましを掛けずに寝坊する。
いつも起きる時間からウトウトし出して、あまり気持ちのよくない夢を見たが、内容は忘れてしまった。

10時に起きて、寝癖のまま、母とジャパネットの番組をぼんやりと見る。
普段なら、何かをしていないと落ち着かないのだが、今日は強制的に休むと決めているのだ。何もしない。スチーム何とかがお風呂の排水溝をあっという間にきれいにしてしまう映像を見て、36000円の商品があっという間に18000円まで値下がりしていくさまを、ただ黙って目撃する。

とりあえず洗濯はして、昨日のカレーをあたためて食べ、お皿を洗ってから、コーヒーを淹れる。

YouTubuで大好きな韓国人家族の動画を観て、韓国ラッパーの世界に辿りつき、ゲームチャンネルを経由する。うっかり、悪い韓国語の言葉をひとつ覚えてしまった(ピー音が入る類のものだ、絶対言えない)。

2時過ぎころ、読書に切り替える。
なるべく仕事や勉強に関わりの無い本を引っ張り出してきた。
アントニオ・タブッキの『いつも手遅れ』、石井好子の『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』、それから、岩崎信也の『食べ物屋の昭和~伝えたい味と記憶』。

4時過ぎ。
石井好子が描くおいしそうな食べものの描写のせいで、さっきからずっとお腹がすいている。

夜ごはんに、キムチチャーハンをつくる。
理由は、冷凍ご飯とキムチが余っていたから。
以前、いろいろと野菜を切り刻んでつくったら、せっかくのキムチの存在感が薄くなってしまったため、今日は材料にキムチと卵だけを選んだ。母と二人分の量なので、一人暮らしの自炊料理に慣れきった腕には、フライパンが重くて少し情けない。

野菜室に、割と新鮮めなレタスを発見した。
レタスチャーハンもよかったな、と思いつつ、さっきまで読んでいた石井好子の料理が頭をよぎった。古い本の、インクが滲んだような明朝体でこう書いてあった。

フレンチドレッシングは、そのとき、そのときに作った方がおいしい。油3、酢1、そして塩コショー、とフランス人はいうが、日本人は油2とした方がよいかもしれない。

レタスを一口大にちぎってガラスの器に盛る。
石井好子の言うとおりに、ドレッシングは、油2、酢1、それから少々の塩と胡椒。ちいさくて可愛らしいドレッシング用の泡だて器を引き出しの奥から探し出してきて、空気を混ぜ込むように、ひたすら混ぜると、クリーミーで柔らかい幸福な液体になる。なにより材料がシンプルで、疲れた脳みそにはなんとも健康的である。

夜はぼんやりとテレビを眺めて、そうして私は強制的なオフを終えた。
こんなシャットダウンも、あってしかるべきかもしれない。

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