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しょげて本屋を歩いていたらハイヒールをはいたお坊さんに出会った話

どんな出会いでも、偶然はないと思っている。
その時の私が心から欲していたから、自然と足がそこへ向かったのだろう。魂の欠けた部分が「ここが足りない!」と大声を上げたから、出会うべき何かを引き寄せたのだろう。そう思う。心は強力な磁石のようだ。

***

今日、私は朝から気力を失っていた。

半年振り回されたどでかい仕事が二件、ほぼ同時に片付いたのが先週末のこと。三連休とお盆休みに挟まれた、ただでさえ中途半端なこの二日間は、後片付けと資料整理しかやるべきことがない。開放感を通り越して、緊張が途切れたのだろう。
私の中からぽっかり、やる気が消え失せていた。

気力がない時は、自信もなくなるものだ。
私という人間が、社会からまるで必要とされていないような錯覚を覚える。
かといって気持ちはソワソワ焦り、わけもなくイライラしている。なんだか、大きなはんぺんになったような気分。

どうしようもないので、定時で会社を出てひと狩り行くことにした。

本屋へ。予算は一万円。

***

と言っても、今日の私の状態は予想以上に深刻だった。

本屋に着いても、ちっともワクワクしないのだ。

本屋へ来ればたいていの場合、私は機嫌がよくなる。片っ端から本を選びきれないだけ選んで、リュックがぱんぱんになるくらい買いこんで、家に帰りつく頃には肩が千切れそうになっているのがいつものことなのに、今日はなぜか、何を見ても欲しいと思えない。きれい、好き、楽しい、嬉しい、の感情が心のどこからも出てこない。
売り場の真ん中に立ち尽くして、泣き出してしまいそうだった。
これはまずいぞ。
この状態はよくない。

―――このままじゃ帰れない。何とかしなければ。

***

本屋の2階に上がり、自分の中にアンテナを向け、「いま、私は何を欲しているか?」をかなり真剣に感じようとしてみた。

普段は人文科学、自然科学系の専門書コーナーに直行するのだが(大体そこで予算とリュックのキャパが尽きる)、今日はそちらへは気持ちが向いていない。
ならば、と、いつもとは反対方向の芸術コーナーへ足を向けた。
写真集から、カメラ、フォトエッセイとじっくり歩きつつ、普段、意識的に買わないジャンルを手に取る機会なのかもしれない、と考えてみる。ジャズ、洋楽、クラシック、と歩き、譜面のコーナーでベートーベンを探し(ピアノは弾かないのに)、ファッションの歴史、映画、演劇、歌舞伎、落語、謡曲…。どれもこれも、びたりと来ない。

洋書、英語のテキスト、韓国語のテキスト、憲法、いやいや違う……政治……小池さんの写真がずらりと並んでいるけど、どんな人が買うんだろう、批判ばっかり……心理学?悪用してはいけない人の心の動かし方、のような本が棚一面に並んでいる。需要があるんだな。いらないけど。

数学、医療、建築を経由し、結局いつもの自然科学系のコーナーをぐるりと回って、社会学、仏教、の棚へ辿りつく。
この時点で二時間ほど経過していた。もう、今日は無理かな。そういえば、この前買わなかった本があったな―――

と思った、その時だった。

黒地の表紙に浮かび上がるその人の“顔”に、突然、ぎゅっと惹きつけられた。

***

文字情報は、そのとき目には入らなかった。

めちゃくちゃ美しい、世界遺産クラスの仏像かと思った。
黒地に映える、とてもきれいな形の坊主頭のその人は、シンメトリーの右側が僧侶、左側がカットクリースのアイメイクと睫毛が印象的な美女。美女側に気をとられがちだが、よく見ると、僧侶側の瞳が深く澄んでいて美しいことに気がつく。

―――何者なんだ、この美しい人は!

出口もわからず迷い込んだ真夜中の暗い森の中で、とつぜん目の前に金ぴかの神さまが現れて、あたり一面をキラキラと照らし出してくれたような、そんな感覚である。
姿を目にした瞬間に迷いや憂鬱が吹き飛ぶなんて、神さまそのものじゃないか!

その本を手に取った瞬間、あ、私は今日、この人に会うために本屋に来て、二時間ぐるぐるとさまよい続けたんだな、と腑に落ちた。

よく見ると、『西村宏堂』の著者名の横に、小さく「ハイヒールをはいたお坊さん」と書いてある。

自信と気力をなくして、しょげかえって本屋を歩いていたら、なんと、ハイヒールをはいたお坊さんに出会ってしまった。
出会いは偶然じゃない。これは絶対に偶然じゃない。

***

「ハイヒールをはいたお坊さん」こと西村宏堂さんは、浄土宗の僧侶で、メイクアップアーティストで、LGBTQの当事者。そして何より信頼できるのは、自分はLGBTQの一員ではあるけど、どのカテゴリーにも属さない、世界は多様なんだよ、とキッパリ言い切れる人だということ。

自信って「人より秀でていること」だけじゃないの。
「あなたは、今の自分の状態をよく知っているという揺るぎない自信を持っているじゃない。」
嬉しいこと、嫌なこと、悲しいこと。感情は、1日の中でもくるくる移り変わる。それは当たり前。大切なのは、心に引っかかる感情はそのままにしないで、その感情がどうして起こったのかを突き止めること。

自身の置かれた運命の中で、悩み、苦しみ、気付き、努力して、そして勇気を振り絞って手に入れた経験と喜びをもとに紡ぎだされる言葉たちは、ひとつひとつ、じんわりと胸に沁み入って、読み終わる頃には、私は今朝からしょげかえっていたことなどすっかり忘れてしまっていた。

明日また、もう一度最初から読み返そう。
そうしたらまた、新しい気付きがあって、私は私の生活と仕事を、もっと真剣に頑張ろうと思えるに違いない。


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