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【エッセイ】「人の正邪には「欲求」が関わっている」の話【読了目安:20分】

人の正邪を分ける基準とは何だろうか?

世の中には、「どこからどう見ても賢い者」と「どう頑張っても絶対にあと一歩至らない賢くない者」の二つの人種があると思う。

世紀の大発明や史上有数の美術作品を手掛ける者や、企業価値や学術領域における「目に見えない価値」を創出する「稀有な素質を持った人間」は枚挙に暇がない。

同様に「目がくらむような途方もない時間を積み重ねて結実した成果」を引っ提げて彼らに挑んだり、ミクロでこそ統一性のないアクションが目立てどマクロでは如実に計算された統一性が窺える、裏を返せば「確固とした芯を据えてブレることなく積み重ねることができる者」に代表される「凡庸な努力家人間」もまた多い。

しかし言わずもがな全人類が共通してそうした「持てる者の素質」を持ち合わせているわけではない。

明瞭な革命意思を持たない「単なるはぐれ者達」による反社会運動。
淫乱・怠惰に身を浸し版図拡大に興じる合法・違法の営利集団。
「政府・社会運営」の大義名分のもとに特権乱用に明け暮れ本職を疎かにする衆愚政治に沈殿する汚泥共。
道理に則さない迷信を盲信し、あまつさえ他者への説法を介して同胞を増やそうと画策する愚鈍な偶像崇拝者達。

それらはいずれも世の中の不調和によって(誰にも望まれず)生み出されたり、「人間の潜在的な攻撃性」を逆手に取った資本主義という名のイデオロギーによって翻弄・量産された「老廃物・産業廃棄物」であり、人権の名の下に無計画に増殖した為にこうした「管理の行き届かない影」が、「持たざる者」が生じているのではないか、と私は思っている。

しかし「先天的な賢さの有無」で決まるのは、生涯で使い続けることになる「道具の種類の違い」までであり、与えられた道具の使い方を自分なりに見つけさえすれば、評価というのはいかようにもなるものである。

「社会に貢献する政治家」は善で「社会に貢献しないホームレス」が悪?

素質の有無や動機の良し悪しはともあれ「文明に貢献した者達」を天井としたとき、二者を隔てる厚い雲の下、ジメジメしたぬかるみに「その他大勢」はのたうち回り、微力ながら何かに貢献しているもその体力のほとんどは「近眼的で利己的な欲求の満足」に消費され、特に自らの不遇な現実を他者に喧伝したり、お互いを慰め合ったり、届かない下克上を叫び続けたりしているのだ。

(そのぬかるみで怒りと祈りを説くのが何を隠そう、私である。)

しかし天井にもぬかるみにも「持てる者」はおり、同様に「持たざる者」もいる。

文明に貢献しながらも横領や汚職に染まる愚か者はいるし、識者には「明らかに潜在的な素質があるように見える人材」でも指揮命令者のいい加減な扱いのせいで燻っているような者もいるし、(上でも下でも)当然の如く「いるべくしてそこにいる者」というのはいる。

だが「素質の有無」と「貢献の如何(置かれた環境)」によって人間の正邪が決まるのかと言えば、どちらの者がどちらの環境にもいるようだからそうでもなさそうだ。

それに、もし「素質と貢献度」で判別できるなら「全人類を明瞭に四種類に大別できるはず」であり、それはおかしな話である

トラブルには共通して「欲求」が関係している?

そしてここからが本題なのだが、結論として「人の正邪には比較・競争を助長する「欲求」が強く関わっている」ということになる。

欲求とは、生存のための「睡眠欲・性欲・食欲」の「生理的欲求」を基礎とした「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」の順に積み上げられる「マズローの欲求5段階説」が有名で、私は特に欲求の「低段階の不足時」と「高段階の不足時」とで発生する不具合の属性が変わってくると考えている。

例えるなら「車のエンジンのトルクと回転数」の関係と似ていて、低段階の場合は「高トルク・低回転数」で、高段階の場合は「低トルク・高回転数」といった様子で、それぞれの速度帯の運転時に発生する「トラブルの属性」が異なることと近似できるかと思う。

低段階の「動物的・本能的な欲求」から上に行くほど「人間的・社会的な欲求」へと変遷していき、時代の経過に従って文明・技術レベルの向上と同時に生活水準も向上し、徐々に「単位人口当たりの欲求レベル」も向上してきたはずだ。

しかしその中でも時・場所を問わず一定数存在する、より低層の「生物的・本能的な欲求」が満足されない人々は必ずいて、(時代ごとの文明・技術レベルによって差はあれど)どんな時代でも素質・貢献度に関わらず今と似たような「欲求レベルの分布」だったはずだ。

欲求の段階によって「トラブルの影響度・発生率」が変わってくる?

そこで、この「欲求の段階に応じたトラブル」の主観的な考察として、不足した時間・質に応じて幅があるものと考えられるが、「低層ほど周囲への(時間的・物体的な)ダメージは軽度だがその発生件数は多い」、そして「高層ほど周囲へのダメージが大きく件数は数例」であると考えている。

住まう周辺の環境が整備され福祉や教育や社会のレベルが高く、賃金も十分で衣食住に不自由がなければ下層の欲求を満たすのは容易で、その分だけ高層の欲求を満たすために「時間的・資金的・資源的余裕」が生じることになる。

一方、例えばアフリカの田舎のような未舗装路が多く上下水道に加え電気の供給がなかったり安定した収入も見込めない環境では飲食すら危ぶまれ、喫緊の生命維持のために制約も多く、結果として「時間的・資金的・資源的余裕が少ない(あるいはない)」のだ。

社会に組み込まれた「欲求を刺激し追求させるシステム」が人を幸福にも不幸にもする

社会や環境に与える影響、いわば「トラブルの質」や「その発生件数」は「環境と不足しているニーズ」に関係しているということである。

先進国・首都圏にわかりやすい「余裕のある人々」は集団環境下に多く見られる「文明的・社会的欲求」に大別される中層から高層の欲求の満足を試み、そこで行われる満足のための手段は「経済・産業・商業における貢献」ということになり、その舞台は「公共的な社会」なのだ。

他方後進国の片田舎に多い「余裕に乏しい人々」はまず目の前の「その日の生存・安全」を、自分や家族が生きるという「原始的・動物的欲求」の満足を試み、その為の手段は労働や農耕による「第一次産業的生産」や「労働貢献の対価の獲得」であり、「一地域の出来事」である。

そこに、幸か不幸か「早い者勝ち」とか「弱肉強食」とか言った、良くも悪くも「誰にも平等な経典」として法律やその直轄の取り締まり組織や等価交換の法則や資産が「満たされた者」と「満たされざる者」の差を顕著に表し、欲求を満たしたくても満たさせない障壁が「資産や資源の差異」として目に見えて立ちはだかるのである。

募る不満は手段さえ選ばせなくさせる

欲しいものが手に入らないと、欲が満たされないと、すごく苦しい。

しかし満たすには「現実的な手段」を用いてその障壁を超える必要があり、満たされないときは満たされないなりに生じた原因によって、その手段の獲得はかなり厳しい。

その結果、欲求は善悪を考慮させず、時に道徳や倫理観をも無視させて行動を起こすのである。

余裕のある者は欲のために違法な献金やワイロを行い、談合や買収や口裏合わせを行い、圧力を働かせ、自らの得たいところを得る。

その日の生存・安全を欲する者は金品や飲食料を、時には石油や化学薬品を盗んで転売したり自ら使ったりして、身に危険が迫れば目撃者の通報を阻止するために武器を取る。

こうして禍根は芽生え、誰もが得をしない束の間の「尾を引く、とりあえずの成功」がそれぞれに蓄積されていき、その後は「後ろめたさに慣れて数をこなしていく者」や「罪悪感に苛まれて自首する者」「自責の念に自害する者」など行く末は様々だ。

「知ってる」と「知らない」とでは話が違う

そして一度発生すればどんな形だとしても少なからずその手段は他者に伝達され、時・場所を問わず「必ず再発することになる」。

多くの人が知れば「一人勝ちは許さない」と後に続く人が現れ、難易度が低いほどその発生件数は増え、さらに不正は「それまでその気がなかった人にまで伝染する」という怖さを孕んでいる。

伝達された者は自らの欲求次第でそれを活用しかねない為に「潜在的な不正予備軍」になってしまうためだ。

この時各々に不正を阻止すべく自制心として、最後の砦たる「良心の呵責」として働くのが各々の道徳や倫理観なのだが、欲求は一部が本能に根差しているため、容易く制御を振り切ってしまう。

これが「欲求による過剰な競争心の助長の怖さ」なのだ。

人を生かすも殺すも欲次第?

持てる者だろうと持たざる者だろうと、社会に貢献してようとしてなかろうと、人間の良し悪しを決めるのは「欲の如何」による、ということなのだ。

仏教では欲を含む「執着・煩悩・雑念」を戒め、制限のない「自由自在」を目指すとされていて、自らに拠り所を見つけ、伸ばし、修練に励むというスタンスは「自らを不必要な競争に陥っている事を自覚させ、自己発展のために心身のリソースを用いる」ということを自覚させてくれる。

それ以外にも欲深きを戒する精神は多く見られ、「二兎追うものは一兎をも得ず」だとか、キリスト教の七大罪の「強欲・色欲」と欲の字がつくものがあったり、「Much would have more(沢山あるほどさらにほしくなる)」だとか、世界中で言わずとも直感的に理解される部分として認識されており 、それだけなじみ深い失敗であることが古今東西を問わず知られているだけに、今後の人類も同じように欲を制する必要があるのだ。

動物の本能として強く働きかける無益な欲求が文明や社会の進展を、自身の発展を阻害してしまっている。

欲の全てが悪いということでは決してないが、あまりにも身近すぎる落とし穴に我々は常に警戒しなければならないのだ。

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