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【エッセイ】「20歳までに構築された潜在意識は死ぬまで変わらない」という話

 大変失礼なことに、私は対人関係で「表面上は良い面をしていても、潜在的・仮面の下では人を疑い見下げる様な態度」をとることがある。 

その対象が友人だろうと家族だろうと、良好な関係が必要な同僚であっても、なのだ。  

原因は小学生時代まで遡れそうで、思い当る節なら今に至るまでいくらでもあって逆に特定しづらいくらいだ。

つい先日も、後々考えてみると、仕事の同僚に対してそのような態度をとっていたことがわかったことがあって、「無意識的に自分が火種をまいてしまっている事」に頭を抱えている。

今回は自己分析を通して何となく見えたそうした無意識の話、自力で変えるには時間と労力が必要な「人の本性の話」をしようと思う。

◾️「人生のはじめ 2 割で構築される人格」が「人生全体のの 8 割を形成している」、かもしれない

 世の中には 2:8の法則とも言われる「パレートの法則」というものがある。

 経済学で用いられるこの用語は「顧客の上位2割が売上の8割を占める」という経験的な法則性を見出した学者の名を冠したものだ。

そして私は本質はそれぞれで異なるものの、そこかしこで当てはめることができるようだと感じている。

これは何においても適用できる、宛ら「(マクロもしくはミクロ)世界の真理」の様な雰囲気を感じさせるもので、私はその所以を「人格・人間関係の軸」にも見出せると思ったのだ。

 簡潔に言うと「人生のはじめ2割(で得た知識・経験)で構築される人格が、人生の8割を形成している」という事になる。

 追って解説していこうと思う。

◾️人間関係の軸は「考えてきた知識・経験」に基づいて形作られる

 まず持論を展開する前提として、「人格形成期中に獲得した知識・経た経験」次第で「その後天寿を全うするまでの人間関係の軸」が完成すると考えている。

 とはいえ経済的な成功・失敗、結婚、子供の誕生、親しい人の死等の「獲得と喪失が人生にもたらす衝撃」によってその軸はある程度は変動するとも考えている。 

しかしその程度は「軸の根本的な変容」をもたらすことはないと思われる。 

なぜなら、もしもたらしうることがあれば「人格を破壊に至らしめるほどの衝撃」になって、軸の変容の前に生存の指針、いわば「生きる目的・意味という『人生の依代』」が損なわれて廃人の様になってしまうから。

 そうなれば長く生きていられないと推測できるからだ。

 そういう訳で「生きる目的・意味を形作る人間関係の軸」は、物心のついた時期を始め「生産活動を本格的に開始するまでの期間中」に形成されると考える。

 「一度勢いのついた物体が急制動することができない様子」とでもいえるだろうか、漸次微調整はできても 180 度回頭は簡単にはできないのと同じ構図の様だ。

 そしてその様子は短時間に強い接触があった場合、つまり「許容強度を超える強い衝撃があった場合」にも構造的な破壊という同じ挙動をとることをも示す様だ

◾️「嫌な事」は「良い事」よりも思考に影響を与える

記憶は様々な感覚情報と関連付けられて格納され、その優先順位は「生命の危機に関するもの」という原始的な選択基準にあらかじめ本能的に設定されている。

 そのルーツは我らが祖先が進化して間もない「弱肉強食の環境」に起因する。

一般的な動物の進化のペースに対して、人間は「身体の進化」に先んじて「精神の進化」が指数関数的な加速をしてしまい、「バランスの悪い状態」になってしまった。

それは「ハードがソフトに追いついてない状態」と言えるだろう。

つまり「考えられている事象が自分にとって脅威であるか否か」が意識形成に多分に関わっているのだ。

その為「明日の存続を脅かす事案」が自分にとって脅威である程、意識のリソースは「危機への注意」に回される。

それは社会生活におけるコミュニケーションへのリソースを省くという事を指し、基本的欲求におけるより低次のものを満たすべく作用する。

反対に危機が周囲に存在しない「安全な環境」であれば、相対的に生命の危機に関するものへの思考リソースは別のものに費やされるだろう。

それは例えば「もっとおいしい料理を作る」とか「勉強・スポーツ・ゲームのスコア の向上」とかに割かれることになる。

 要は「これまで(人格形成期中)で一番考えてきた事が『快いものか否か』で本性が決まり、『その後の対人面における態度』が決定される」と言えるのだ。

 「どれだけ自身の生命の危機に関係するか」「どれだけ長くそのことについて考えてきたか」という本能的な優先順位に基づいて思考は選択され、伴って長期記憶や意識の潜在・顕在が形作られていくのだ。

◾️考え続けたことは「思考のクセ」になってこびりついてしまう

例えば、「学生時代に『尊厳が損なわれるような悲惨な失敗』を経て自分の周りの人間が離れていく場合」。

この場合はその不可逆的な失敗に伴う生存上不利な「孤立」や「社会的な喪失」に対するネガティブな思考が占めることになるだろう。

幸運なことに「誰かが手を差し伸べてくれて立ち直った場合」や「独力で立ち直った場合」は早々にその思考から解放されて、また別のことに思考を巡らせるかもしれない。

しかし回復の機会に恵まれずにネガティブな経験が思考を占める時間が長くなるほど、人格は「生命の危機に対する戦略を重視した方向」に進路を変え、遂に潜在意識もその形になってしまうのだ。

「ネガティブな思考がクセになってこびりついてしまう」ともいえるだろう。

反面「致命的な失敗もなく、あったとしてもごく短期間で立ち直る場合」であれば思考はポジティブなもので占められ、潜在意識にもクセとして刻まれると言える。

 これらのことから、その人の対人関係から「何を、どれだけ長く考えてきたか」「ポジティブあるいはネガティブで考えてきたか」が読み取れるわけである。

◾️結論、私は

 さて冒頭の私の話「何故私が表面上では良い風でも、潜在的・無意識的に他者を嘲るのか」について。

結論「私が『人格形成期を含む小学生時代から社会人になって退職するまでの間』、『数々の失敗』という『ネガティブなこと』について考えてきたから」である。

 失敗の直接的な原因は「ADHD的な不注意と多動」に由来していただろう。

しかしより深刻だったのは間接的な原因の方、「『原因もわからずに叱られるという対策不能な生命危機の事象』に対してできる精一杯の対策」だった。

 ADHDはここ数年にして世間的な認知度が上がってきたものの当時はさっぱりで、自分も他者も何故こうなのかを把握できるはずもなかった。

加えて「落ち着きがなく自身を客観視できない」という悪癖は原因を把握させようとはしてくれなかったのだ。

結果として自他ともに認める「心身の落ち着きのないやつ」というポジションに定着してしまった。

脳の構造上仕方ないとはいえ事実相手には損害が、自分には防げないミスが発生していた。

仮に周囲に理解があったとしても結末が大きく変わったという事はなかっただろう。

 それは「少しでも自分が不利益を被る可能性があればいち早く察知し、未然に防ぐ事」を指す。

つまり「問題の本質的な原因へのアプローチの仕方」を知らなかった中で出来た、原因への間接的な対策(小手先の悪あがき)だったのだ。  

相手の挙動・言動・顔色・態度を常にうかがい、怒られない様にゴキゲンをとることに終始する。  

そうして出来上がったのは「体裁だけ一丁前の、本質的には無能な仕事の出来ない奴」だった。 

私も、前提で述べた「ターニングポイントがもたらす衝撃」を、その一回目にして人生指折りの衝撃度のものを経験した。 

最大瞬間衝撃度は甚大なものだったが「結果的にその穴は塞がり、時間をかけて復活を果たした様」に見え、「人格の衝撃許容度」の範疇に収まった事を意味しただろう。

しかしその実首も皮一枚で生き永らえただけで、ヒビだらけで人格は所々崩れ、吹けば倒れる程弱っていたのだった。

時間が経って余裕が出てくると、同じ轍を踏むまいと「できる限りの徹底的な防衛線の構築」という戦略の見直しを図った。  

つまり「自分が悪いのではなく他者が悪いのだけれど、それを言及して言いくるめることはできないから、トラブルを起こさない様に感情を逆なでしない態度」を模索するに至ったのだ。

その様な経路を辿り、結果的に人格の破壊は免れたものの「孤立や社会的な損失に対して考える時間」は病的に増えたのだった。

人格形成期における知識・経験はそれらネガティブなもの達を材料にし、対人関係において「『自分は悪くない。悪いのは他者だ』という他者を疑い蔑む態度」が構築されてしまった様 だった。

「既に形成されている人格(本性)が『他者を疑い見下す態度』になっていた」だったのである。

◾️「だったら、人格を変えるにはどうすればいい?」

 さて私の本性がわかったところで、人間関係の軸(潜在意識)を変えるにはどうすればいいか、考えてみた。  

結論「『自分が望むポジティブな事』を『低強度でも時間をかけて考え続ける』他ない」と言えるだろう。

 マズロー心理学に基づいた

1 : 成長方向のベクターを高め、成長を『魅力あふれる喜ばしいもの』にする

2 : 『成長の恐れ』を最小限にする

3 : 安全方向のベクターを最小限にし、安全への誘引力を小さくする

4 : 安全・防衛・病気・退行の恐れを最大限にする(=故意にリスク意識を高めて成長への原動力にする)  
出典:成長と退行のベクター

といった「正しい恐れ方」がその指針になり、なるべく長く継続して蓄積された結果として、いつしか「かつては想像もできなかった人格の変容(矯正)」ができるのではないか、と考えている。

◾️それでもだめかもしれない

 しかしやはり精神の許容応力的に人格を根本から変えることはできないと個人的に考えている。

パレートの法則的に「残りの二割分の比較的軽微な変容しかもたらすことができない」と考えているのだ。

もっとも、これは実験したり調査したりしたわけではない「主観的な憶測」でしかないのだが、いち経験談としてそう思えたため、こうしてしたためた次第だ。

 正しいか間違ってるかはさっぱり分からず無責任だとは思うが、まあそもそも備忘録を兼ねて綴っているだけだ。

やや無責任だが、今にして「そこまで厳密に見ることもないのではないか?」と考えてしまっている。
いかがだろうか?

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