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【エッセイ】「人がペットを飼ったり子供を作ったりする理由」の話【読了目安:最短8分】

「子孫を残す理由は?」「なんでわざわざ動物なんか飼うの?」こうした疑問は誰もが経験したことがあるはずだが、果たして「小学生にでもわかるレベル」で説明することはできるだろうか。

自分が生きている事の証明?
「リスクを冒してでも種を残す」とか「自らの中に宿った命を殺したくない」という母性?
そもそも理由とか意味なんてなくて単なる「成り行き・定め・運命」?

直感的に理解されているかもしれないが、生憎現段階の人類はその理由を述べられるだけの客観的根拠をまだ知らず、故に「これが答えだ」といえるような回答は存在しない。

しかしそうかといって話を終えてしまっては建設的ではない。

そこで個人的に思う「何故自分よりも幼く多くの点で劣る『弱き存在』を育てるのか」について考察しようと思う。

結論を述べる前に簡単に持論をまとめておこうと思う。

多元宇宙論に基づく二つの持論
(結論を急ぐ方は次項へスキップ)

前提として、この世界を多元宇宙論的な解釈(あるいは多重世界線解釈)をしたとき、全ての物質が取りうる選択肢の数だけ存在し重なり合う「物質界」と、物質じゃない存在で占められる「非物質界」に分けられると仮定する。

非物質界を簡単に述べると、時空間が存在しないが故に物体も熱もエントロピーも始まりも終わりも存在せず「発生・誕生」したわけじゃないから、ただ「ある」だけの「物質界と重なる(スーパーポジション)の領域」で、今回は関係しない為回を分けて考察しようと思う。

この物質界に存在するあらゆる有形物、地球を始めどこまでも広がる宇宙全体に存在する(人間を含めた)動物も植物も昆虫も菌類も無機物もが「自然」に組み込まれていて、ミクロにおいてもマクロにおいてもそれらが取りうる運動の意図が「自然そのものの選択」なのだ。

その時考えられる「自然の正体」の可能性は大きく二つ、その自然を擬人化したとして物質界の始まりの瞬間から終わりの瞬間までが、自然環境下の我々が知覚できない「(単一あるいは複数の)上位存在によって意図的に操作されている」というものと、この物質世界の出来事は「あまねく個存在の偶発的にして恣意的な相互作用」による産物で、自然という「『時空間のルール(=物理法則)を司る支配者』の下でルールに従う以外は完全に個存在に委ねられている」というものだ。

「上位存在論」は宗教的・スピリチュアル的な側面が窺えるが時として必然と思える出来事も確かに存在し、諸個人が自らの意志で活動しているようでも実は「自然の意図」が働くことで我々下位存在には知覚できないプロセスで干渉して、結果的にその数々が引き起こされている、と考えることもできるのだ。

自然の干渉対象は生物種に限った話ではなく、「物体が取りうる可能性」が対象だとすれば道端の石一つ・小惑星の一つ・素粒子一つに至るまでの無機物すらも対象となり、いわゆる「人間原理」も上位存在の無機物の可能性への干渉を考慮すれば考えられなくもないといえてしまうのだ。

無論「ポッと出の眉唾理論」で反証や考証が不十分で未成熟な点は多いが、史上多くの人間が錬金術や神の存在に傾倒したように「神的な事象」を鑑みるとあながち間違っていないかもしれないと思わざるを得ないのも事実だ。

やや非合理的で客観性に欠ける理屈だが、「ある種の小噺」の範疇に留められたい。

次いで「偶発論」は従来の科学的客観性に根拠を置いた理論で、ある意味で古典的な世界観に基づいている。

神的な絶対者がいるわけではなく、物体は何者の干渉を受けることもなく内包する可能性に身を委ねて自然発生的な相互作用の中の出来事に存在し、人間原理的な解釈も「無数に考えられた結末のうちたった一つ、偶然今の世界が選択されただけの結果論」で片付けられてしまう「新奇性のない馴染みのある理論」だが、信頼性は高い。

現状前線で研究している学者達(素粒子物理学者)の意見をのぞいてみても「(多元宇宙論的解釈を前提に)そうならなかった世界が他にほぼ無限にあって、その中から好条件の世界を一つ引いただけ」という言葉からは近似点が多いのだ。

「自然の正体は上位存在か、偶然の連続か」、あたかも重要そうに論じてきたが、実はそのどちらだったとして大して差はないのだ。

なぜならば、我々人類には知覚できない上位存在が操作していたとしても単なる偶然だとしても「自分以外の可能性を選択することはできないから」であり、自分以外の存在・他者に対しては主観で考えるしかなく「絶対に他者の主観を認識し選択することができないから」なのだ。

これは他者について予測したり意見を聴くなどの行動がとれたとしても、別個体として存在する「他者に内在する可能性(選択肢)」の中から「その他者の(感覚的な)価値観・判断基準」を基に「物理的な他者そのものとして選択・決定・行動」をすることができないということである。

単純に考えて自分が相手に代わって一挙手一投足・一語一句完璧に一致する思考・行動を取れるはずがなく、個存在としてここに生きている以上必然の事実であり、感覚的に認識できることかと思う。

上述の「上位存在論」「偶発論」は「世界の真理の探求」に関わることであって我々が「弱き存在」を育てることに直に関わらず、よってこの疑問は世界のあまねく物体存在に働く「種族を超越した自然的な問題」ではなく、「一生物種(人間)の精神的な何かに由来した問題」ということになるのだ。

上述の持論展開から後述される結論に関わるキーワードは「可能性」「個存在としての自分・他者」である。

こと高次脳機能を獲得した人間に発生した「精神的何かに由来した『育てる理由の正体』」は果たして何なのだろうか。

結論

結論、「ペットや子供とだけ作ることができた知識や経験そのものが唯一無二のかけがえのないもので、意見(知識)や感情(経験)を共有できるのが『嬉しいから』」である。

時間や資金・資源をいくら投じたとしても、彼らを育てる中で得た知識や経験、つまり「思い出」は買ったり交換したりできるものではなく、確かに嬉しいとか楽しいとか「感情が動く事実」が得られるから新しい命を迎え育てるのだ。

ここだけ見ると陳腐な内容のようだが、そこに至る経緯について具体的に考察してみよう。

まだ見ぬ存在に出会う為?

育てるにあたってよく聞く声は「自分以外の他者に出会う為」というもの、つまり「自分の主観を超えた挙動が想像できない存在から刺激をもらう為」である。
(かわいいからとかやむを得なかったとかは別として、「進んで育てようとするシーン」を想定。)

人は常に何らかの刺激、自分以外の人間や文明由来のもの、動植物や無機物や天候(天災)等の自然要素から刺激を受けて生活していて、時間や接触機会が多い程新鮮味は薄れ「慣れ」が生じてくる。

するとほとんどの事が予想できるようになって最初のころに感じていた刺激はみるみる薄れ「退屈」してしまう。

人間の脳は構造的に快楽(刺激)を欲し、衣食住の維持や命に危機が迫らない限りは「感情の変化がないこと」を忌避する傾向がある。

快楽追求と命の危機を天秤にかける様子は依存患者の思考傾向にわかりやすく、「今できる範囲でいい方向に向かうように行動する心理」は分からなくないと思う。

種の存続?存在証明?

「種の存続」とか「存在証明」はどうか?
気持ちはわかるが些か「建前」の様に感じられ、個人的には相応しくないと思う。

なぜならば、ペットや子供を相手にして共感や批判を抱いて自他を比較して自分の指標をブラッシュアップしたとしても「生存のための知識・経験値の獲得」が目的になってしまって、自ら身を挺して見返りを求めない「無償の愛」と結びつかないからである。

そもそも本心から種の存続という大義や存在証明を理性の介在をせずに「快く」選択するかといわれればどうだろうか。

例えば「一切の義務から解放されて、種の存続も恒久的に保証され、自身の存在証明も十分に達成された満足した状態」の時、まだ建前を論じたり「彼らを育てないという選択肢を取る」ということはあるだろうか。

大義名分としてそれらの根拠は否定したりするつもりはないが、犬や猫を見て飼ってみたいと思う理由の筆頭にそれらが出てくることが低いのは言うまでもないだろう。

「エモーショナルな思い出」が暫定解...?

「他者由来の予測不能性」「新たな快い刺激」これらをペットや子供がとある場所・とある時間にもたらすことで「共通の時空間で知識・経験を共有」することになり、結果として変えの利かないたった一つの「エモーショナルな思い出」が生まれるのだ。

加えて、自らの余裕を彼らに分け与えることで「善き生の実践」にもつながり、これは自らの自己肯定感の醸成や彼らへの善意識の付与など自他に良い効果を与えるものでもあるのだ。

自分だけじゃ作れない「他者との思い出」にこそ価値がある

物体の数だけ可能性があって、それだけ分岐して重なり合っている他の宇宙がある中で、確実に一つしかない思い出が作られ、そしてそれはそれを共有した者達だけの時間を遡って消すことのできない事実故、共有した時間と空間、知識と経験はどれとして比較できない価値を持っているのだ。

日々大小さまざまな刺激を受けながらいい思い出や悪い思い出が積み重なる一方古い思い出は徐々に忘れられ、共有した全ての他者が忘れればその思い出はなかったことにさえなってしまう。

たった一つ確実に作り出せる反面時間が経つほど風化して脆くなりやすい思い出、私も既に尊かったはずの多くを忘れてしまっている。

そこにはきっと嬉しかった事も悲しかった事・悔しかった事も等しく含まれていたかもしれないけど最早思い出せない。

せめてこれからの記憶は先立って行った命のためにもつなぎとめていきたい。

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