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【エッセイ】現代資本主義のアンチテーゼ 「本来主義」の話【読了目安:約20分】

資本主義の悪行を清算しても尚あまりうる恩恵をもたらすと(現段階では)考えている「本来主義理論」

その原初はいつもと同じくフロムから授けられ、近代・現代社会に広く普及した資本主義が引き起こした、それまで知覚はしていてもぼやけていてはっきりと輪郭が捉えられなかった不調和に、まさに青天の霹靂の如く納得と憤りの方向を示してくれたことに端を発する。

時の私は休職の中にもとりあえずは会社に在籍していて、そんな中で自分の特性が鮮明になって仕事で活躍できないやるせなさから申し訳なさや自らに対する憤りや、「こんな特性があったとて活躍できる環境があるはずなのにも関わらず、何故私の目の前に現れないのか」といった不合理さのようなものにてんてこ舞いになっており、悪意ある自我を持つ雲を相手に殴り掛かっているかのようなあてどなさに苛まれていた。

その最中に差し伸べられた本には抱かれていた怒りや絶望に名前と姿を与えたのみならず、理不尽な数々が何ものでもない資本主義社会そのものによってもたらされていることが明らかになり、外を歩いていてもテレビを見ていてもひとりで思索しているときでさえ五感を通して私に「それは間違っている」と訴えかけるようになり、いつしか是正されねばならない誤りとして潜在意識下から認識されるようになっていたのだった。

フロムは書中で「現代社会を構成する資本主義が人の心から深く思考するリソースを失わせている」という旨の発言をしており、私はその一言に強く胸を打たれ納得した覚えがある。

資本主義の負の側面

よく言われる「苦労は買ってでもしろ」という発言からは苦境を必要な犠牲と捉え、あまつさえ苦境を強いて「自分を生きることに制限をかける様子」が見られたり、建前として「社会や団体の為」といわせ「日々食つなぐため」という本音を認識させないように資本をもって誤魔化している様子が見られたり、医療や食料・インフラの提供にわざと金がかかるように設計して「生存に必要なサービス」を継続して受けるために資本を稼がせ大量消費を促す様に教育しさらなる資本の追求する「利益と消費の依存循環」に待ったの声がかからなかったり、その不協和音には枚挙に暇がない。

そこに共通するのは「忙殺」「強制」「抗えない程の規模の大きさ」、どれほどの人が気付こうとも根本から変えることができない原因はそこにあり、そこに一度更地にしてからスクラップ&ビルドを行わざるを得ないと思う根拠があるのだ。

資本主義の正の側面

無論、現代資本主義のその全てが悪いわけではなく、特に人間が言語を用いてできる共同作業(人間の外的集合意識化という形の並列処理を目指した営み)としては史上最高の水準であり、その構成員の一部を運用することで成果は単純計算以上の膨大なものとなり、事実その成果によって人口は80億にも迫ろうとしている。

この事実は文明・技術的な成果が閾値に達した為にもたらされた指数関数的な成果の賜物であり、それが実践した資本主義という社会構造パッケージの中に含まれている為、社会構造のどこを生かしてどこを撤廃するかはまた別の話であるが、しかしいずれにしても人間文明へ影響がもたらされるものが清濁併せて一緒くたにされてしまっているのだ。

かくかくしかじか、資本主義という社会構造が種々の問題を引き起こしているとして解釈していると述べてきたが、では資本主義の悲劇を改め人々に幸福な暮らしを与えうるとする本来主義とはいかなるものなのか、そもそも本来主義が掲げる「本来的な人間生活」とは何なのか、それを以下に考察していこう。

本来主義の根幹を成す「本来的な人間生活」

「本来的な人間生活」は「個性の尊重」「相対化・差異の排除」「環境整備」の3点の要素で構築され、特に重要視されるのが「個性の尊重」である。

個性とは「個人に内在する表裏一体の長所と短所の事」であり、本来主義社会では何よりその発展と行使を尊重する。

自主的・能動的に個性が行使されるとき個人の実力は有効に発揮され、本人が納得していなかったりやむ得ず従っている等「他者由来の受動的な行為」による実力の行使とでは出力に明白な差が現れ、そうした命令者が往々にして口にする「スキル・経験値の獲得」に関しても時間対効果は比較して貧しい事の方がほとんどである。

更に比較・競争は閾値を超えると実力に大幅な減速をもたらし、うつ病を筆頭に心身の疲弊という形で成果出力の効率が致命的に低下する危険性もある。

しかし比較・競争の全てを問題視しているのではなく、閾値内、それも個性行使時の自主性・能動性が向上する「切磋琢磨の状態」が引き起こされる限定的な領域においては逆に奨励される。

好ましい形の相対化 「切磋琢磨の関係」

(出典は忘れてしまったが、)戦時のアメリカがレーダー開発をしていた時の事、日夜対航空機レーダーを開発し試験をしているにもかかわらず理論値とかけ離れた数値が立て続いてたたき出されていたある日の話。

その施設の脇を流れる川の対岸にある別の研究機関が、同じ命令を出した政府によって同時期に近距離で同様の技術開発・試験を行っていたことが判明し、お互いに干渉しあっていたことで意図せず相互妨害をしていて、結果的に黎明期特有の粗は益々削られ開発精度(レーダーの探知精度)が向上していたことが明らかになり、以後はお互いを仮想敵として研鑽を続けた結果、後の量産品は時の技術的観点から見ても指折りの性能を発揮した、という話である。

ここに見られるような比較・競争はまさに純粋により良いものを探究する「切磋琢磨に臨む姿勢」であり、この向上を目指す「共通意識の下の比較・競争」に関してはむしろ積極的に行われる必要があるのだ。

それ以外の不必要な比較・競争をわかりやすい形で現す、個人同士を分ける「(肉体的・個性的な差異以外の)あらゆる差異」は厳しく戒められ撤廃されるべきなのだ。

しかし仮に今、社会からあらゆる差異、特に資本(貨幣)や宗教や価値観がなくなったとして、全ての個人が自らの向上意欲によって自主的・能動的に個性発展を行い「本来的な人間生活」が実施されるかといわれれば、おそらくそうはならないだろう。

現実問題として食料・医療・インフラに代表される「生存に必要なサービス」の需要を満たすための生産・維持・流通・供給に充てられていた労働力(人的リソース)がなくなってしまうからである。

そこで、本来主義は個人が個性の自由な発展に集中できるよう政府を刷新して社会環境の整備の一切を担い、第一次から第三次までの産業のほとんどを機械で代替することを目指すのだ。

労働力に機械を用いる 「自動社会の招来」

イデオロギーの転換後に政府が市民に直に干渉する「最初で最後の公共事業」としてインフラの基礎を構築することで需要を満たし、労働から解放された個人は自主的・能動的に社会に無償で提供する形で労働を行ったり、学問や文化活動に励んだりすることができるのだ。

現実社会の労働で人間が用いられているのは、機械と違って「安価な費用」と「できることの多さ」に起因しているためであり、世界規模で一枚岩になって流通の障害となっていた「貨幣の撤廃による資源や開発リソースの一元管理化」が実現することでリソースの流動性は向上し、開発に要求しうる限りの有志による人的リソースと物的リソースを配分することで滞っていた開発は加速し、結果的にその成果は市井に還元され、さらに恩恵は雪だるま式に加速していくのである。

(無論これは全てが理論通りで外乱がない状態を想定したもので実際はこの通りではないだろう。前提として「産業の担い手を機械に代替すること」が上げられる点、軌道に乗るまでは懸念点が存在するが、それでも惰性的に続いてきた「効率的な利益の追求がもたらした歪な社会構造」を是正する可能性があると信じている。)

個性・人格を涵養させる 「教養の付与」

環境整備に関連するものとして「啓蒙活動」も挙げられ、これは「個人が個性を発展していく際の選択肢を認識するため」であると同時に、政府の治安維持機関の介在を想定しない「良識ある市民社会構築のため」である。

狭い視野においては収集できる情報にも偏りが生じ、結果的に適性のない個性の発展が志されたり、潜在的な個性の可能性が散見されるにもかかわらず本人にはその情報がない為に認識されず「翼があるのに飛べることや飛び方を知らない」というような事態が引き起こされてしまう。

そこに経験する苦労は適切な教育下においては本来経験されるものではなく、そうした悲劇を回避するための「あらゆる選択肢」の為の情報共有が意図される。

加えて、本来主義統治下におけるある種の法律として「目指すべき善」を道徳や倫理に学び、「個性行使の際のリテラシー」や「差異の顕在化と相対化の弊害」、「非制限下における自主性・能動性由来の個性行使で出力される相乗効果」等を広く啓蒙することで犯罪や事故を治安機関によってではなく「個人の精神のレベルで取り締まること」を意図している。

(警察組織や軍部を設置しないというわけではなく、発生件数自体を抑える目的で啓蒙活動を徹底する。過ちに対する罪悪感や思いやりを最小単位として、正義や愛や善まで普遍的な哲学的要素までを一通り義務教育の形で提供し、その後は各個人の意思によってさらなる追求か個性発展かが選択される。)

特筆したいのは、憲法的な共通認識として義務教育は万人に経験されるものの、そのあとの教育・学問の習得に関しては完全に個人に委ねられ、そこに一切の強制力は働かない事だ。

主観的にも勉強は自主的・能動的に行われるのが一番望ましく知識の吸収効率が高い状態であると考えていて、例えば義務教育終了後ただちに進学する必要はなく、その後25歳くらいまで個性の発展に時間を費やしてから今でいう高校教育課程に入ることや、一週間のうち就学する期間を自由に減らしたり増やしたりすることで自由な形で知識の習得ができる。

もちろんそこに費用や満たすべき条件などは存在しない。

本来主義統治下における教育機関の意義は今の社会のような「特定の労働に就くため」等ではなく純粋な「知識の習得」や「真理探究の為の専門機関」であって、その必要がなければ停滞や後退を引き起こさない範囲で自己研鑽に努めればいいだけで、故に60歳になって高校過程に入るのも、義務教育下で教育機関に行ったっきりという話も珍しくなく、年齢的な制限はまったくもって存在しないのだ。

本来的な人間生活の前提条件

この本来的な人間生活の前提条件は3つ、「服従と均質の強制がないこと」「心のリソース(=やる気・ウィルパワー・余裕)の枯渇がないこと」「(アイデンティティの希薄化を招く)過度な競争をしないこと」であり、これら三つの前提条件は相互作用して、そのいずれもが同程度の比重で構成されている。

(ここで「~しないこと」という否定形で述べているのはある意味では「真理は肯定系では表現できず、否定・矛盾によってしか理解しえない」という「絶対無解釈」に通じるところがあり、そうした観点からも本来主義は真理を抽出していると捉えることができる、かもしれない?)

例えば、「服従と均質の強制」が働くことで精神状態は独創性を欠いた受動的で単調なものとなり、そうした精神状態の下では思考はくすんだセピア色で無味乾燥なもの、すなわち「心のリソースの枯渇状態」になり、心のリソースがない状態では成長意欲や投資精神は希薄になり個性は薄っぺらな物になる、というような関係性が見られる。

これら前提条件が満たされた状態、言い換えれば本来的な人間生活で求めている土壌は「自主性・能動性をもって個性の自由な発展ができる環境」であり、そこに営まれるものこそが「社会構造に存在する慣習や風潮によって阻まれることなく文明・技術の進歩をもたらすことができる社会」なのだ。

本来主義支持者は個性の成長・行使がもたらす社会への貢献、文明・技術的な進歩によって「更なる真理の理解」や「善き行いの実現(絶対無の追求・実践)」が叶うと信じており、「個人の質」に重きを置いている。

他者による命令・受動的なタスクが介在しない「オフの状態」における個人の自主性・能動性由来の「個性の自由な発展」が追求目標であり、しかし社会や政府はそれを強要したり必ずしも提供してもらえると期待はせず、需要と供給が満たされた双方が相互補完することによる相乗効果をもって「文明・技術・成員の発展」を目指しているのである。

根本からよりよい社会にするための旗印

勉強・奉仕・貢献といった「自分由来の能動行為」を最重要なものに据え、「肉体的・個性的要素以外の差異の排除」を構造的に不可欠な「最初で最後の強制行為」としており、そこに貨幣はなく、つまり「物的・質的価値の単一基準」は存在しないのだ。

もちろん「社会・共産主義的な富の再分配」や「父権的偶像を崇める宗教」も漏れなく撤廃されるが、それらについては改めて考察することにしよう。

私が抱いた怒りは今や世界の不幸と結びついて形になりつつあるが、果たしてこれは世界に通用する祈りになるだろうか、その為にも私は考えなければならない。

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