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【考察】ティアキンから考える、求めているオープンワールドへのお気持ち表明

ティアキンが発売された。

ミーハーな方々なら飛びついてプレイし、口々に「面白い」「神ゲー!」なんて言うだろうが、私はやっぱり斜に構えて「100点は言い過ぎ」と思っていた。
そこには、逆張り精神だけではなく、「ティアキンには、オープンワールドの革命となった前作の壁がのしかかる」と考えていたからだ。
本稿は、ティアキンを二日プレイしたうえで、「オープンワールドの革命」を起こした前作の特徴を再度考えながら、ティアキンにも関わる「オープンワールドの問題点」を検討するものである。
本稿はブレワイ及びティアキンを「オープンワールド」という文脈から語るものであり、「ゼルダの伝説シリーズ」から検討するものではないことに留意されたし。
また、この記事を執筆している時点で私のプレイ時間が20時間弱であり、進行によっては評価が変わる点にもご注意願いたい。

・前作の壁

前作の壁とはなんだろうか。
それを知るには、前作であるブレワイが為した功績を見る必要がある。

ブレワイの功績は、多く語られる視点で言えば「世界の拡張」である。
ブレワイは超えられないような高い壁を「ふんばりで超える」ようにし、プレイヤーの行ける世界の限界を超えて見せた。
これは、自由に歩き回り探索することのできるオープンワールドというジャンルにとって革命であり、世界中で「ブレワイは神ゲー」と言われ続けた。
自由さ、冒険心、遊び心をくすぐるこのシステムは、他作品との差異が求められ続けるオープンワールドのジャンルにおいて不動の地位を確立した。

しかし、この革命は現在のオープンワールドの認識から見れば「陳腐」である。
「原神」がそのシステムを取り入れるなどして、オープンワールドが壁を超えるように仕組むのも当たり前になってきた。
これはゲームの進化として至極当然ではあるものの、そうした革命が陳腐になってしまったことが、ブレワイの続編であるティアキンにとっては致命傷だ、と考えていた。

このような点から、私はティアキンに「前作の壁」を感じていたのだが、二日ほど遊んだ感想は「そんなことはなかった」というものだった。
なぜか。
それは、「前作が、他のオープンワールドに対して完成し過ぎていることに、今更気づいたから」だ。

・ブレワイの「基礎」に見る差異

この「差異」とは何か。
それは挙げればキリがないが、しいて言うなら「祠システム」と「行き当たりばったりの空間」「戦闘システムと手触りの良さ」にある。
「祠システム」は、マップの各所にある祠に行くことで、ファストトラベルのポイントとして自由に行き来ができるようになるだけでなく、中の謎解きをクリアすればライフを増やせるアイテムを貰える、というものだ。

これの凄い点は、報酬システムとしてのリターンが大きいという点だ。
必要なリスクは「探索する手間がかかる」というものぐらいなのに、リターンは「ファストトラベルで移動が楽になる」「アイテムが貰える」「謎解きが楽しめる」と大量にある。
これはリスクリターンの上で得でしかないので、プレイヤーは祠探しに夢中になれる。
これだけのリターンが用意されているゲームはオープンワールドの中では珍しいし、ハマるきっかけになる。

後者の「行き当たりばったりの空間」は、武器が破壊されたり気候に合わせて行動したりと、とにかくプレイヤーに十人十色の結果が待ち受けている点にある。
特に武器の破壊に関しては、その場その場で代用する武器を要求されるので、一つの武器を使い続けるようなことがないという点から単調さを減らしている。
この結果が見えない手探り感やどこへでも行ける自由さ、状況に応じて動くことを要求される判断力の面白さに繋がっており、ブレワイの魅力に繋がっていた。

そして、戦闘システムの面白さはもはや言うまでもない。
Z注目を作り出した「時のオカリナ」から継承される戦闘システムは、ジャスト回避からのラッシュ攻撃、弓矢を活かした遠距離攻撃、その場のアイテムを用いた賢い攻撃方法など、多彩な動きを楽しめる。
また、ステータスがHPと頑張りのみに振られていることで、その武器特化に育成しないとダメージが出なくなるようなRPG形式にならず、どの攻撃も腐らない点は素晴らしい。
さらに、アクションの老舗である任天堂が作るゲームだけあって、その操作感に一切の違和感がなく、リンクが軽々と動いている点は、文句のつけようがない。

このようなブレワイの面白さは、オープンワールドという乱立したジャンルにおいて、基本であるにもかかわらずあまり重視されていなかった。
だからこそ、ブレワイは評価されたのだろう。
では、なぜオープンワールドにこのような要素がなかったのか。
それは、洋ゲーの数々がオープンワールドを「RPG」であると考えたからだ。

ゼルダに近い世界観(中世)を持つオープンワールドの「ウィッチャー」や「Skyrim」は、形式としてよりRPGに近い方式を採用した。
これらのゲームはステータスや経験値の要素を採用することでRPGの比重を高め、世界を拡張した。
これらのゲームは、「プレイヤーを世界の中の人物にする」という没入感を重視しており、システム面で経験値などのRPG要素を取り入れることで、プレイヤーの成長を表現した。
そして話の中身や裏設定、キャラクターの設定を徹底的にこだわることで、プレイヤーを世界の魅力に惹きつけ放さないように仕込んだ。
この魅せ方は「RPG」の方法である。

だからこそ、「アクションの面白さ」で切り込んだゼルダはある種シンプルであり、別の視点を持っていたことでプレイヤーの心をつかんだ。
こうした意味でも、ブレワイはオープンワールドの革命児であったと言える。

・ティアキンの魅力

では、ティアキンの魅力とは何か。
それは、シンプルに「ブレワイを丁寧に継承した」だけではなく、「別視点から世界を拡張した」ことと、「変えるところを選んだ」ことにある。
「ブレワイの継承」についてはもはや語るまでもないだろう。
前述した面白さを丁寧に継承し、面白さを損なわないようにしている点はまさに続編と呼ぶにふさわしいものだ。

では、「別視点からの世界の拡張」とは何か。
それは「上下の拡張」である。
本作は空島や地下を拡張し、平面をそのままにしたことで、「続編」という部分の面白さを残しつつ、新たな世界を拡張した。

そもそも、本作はマップが前作と変わらない。
これはナンバリングを採用するオープンワールドでは行われたことがない。悪手もいいところである。
同じ世界を旅するということは、同じ体験しかできず「つまらない」からだ。
しかし、本作はマップの土地ではなく建物や構造物に変化を入れたことで、前作を遊んだ人ならではの「遊んだからこそわかる感」を演出している。
同じ土地を歩いていても「前作であんなことあったな」と思い出せるし、変化しているところがあれば「ここ変わってるんだ」と新鮮な気持ちになれる。
あえて御法度とも言える同じマップを採用したことで、プレイヤーに面白さを提供しているのは素晴らしい。

それでいて、そこに上下を足したことで、新たな世界の探索もできるようになっている。
何より、平面から変えることをしていないので、上下移動の新鮮味があって面白い。
地下の探索においても「マインクラフト」のネザーのような異世界感があり、ゼルダの中でも新鮮味溢れるフィールドになっている。
そして、上にある空島は上空の高さを楽しめるように小島が浮遊しており、移動の面白さがある。
上下にマップを開拓するという新しさが、ゲームの面白さをより高めているのは間違いない。

「変えるところを選んだ」と言う点は、システムの根本は弄らずに、不満点となっていた部分にだけメスを入れた。
例えば、武器の威力を調整したり新しい属性を手軽に入れられるように、武器の組み合わせによるクラフトシステムが追加された。
これによって、属性アイテムがなかった時でも、その場にあるアイテムを駆使することで状況を打開できる。
また、使われなかったアイテムにも別の価値が生まれるようになり、アイテム収集がより楽しめるようになっている。
こうしたポイントが随所に用意されているので、プレイヤーはシステムの面でも恩恵を受けられ、より旅を快適に楽しめる。

こうした点は、ティアキンをより洗練されたものにし、オープンワールドとしての面白さを提供した。
求められているものに対して完璧な答えが提供されており、プレイヤーがドはまりするようになっている。
見事なゲームである。

・ティアキンは「根本的な疑問には答えていない」


ここまでティアキンを手放しに絶賛した。
正直、オープンワールドとしては間違いなく面白い。
しかし、だからこそなのか、私は本作に対して「自分の思う、オープンワールドの持つ問題点の解決には至っていない」と感じた。

では、私の思う「オープンワールドの問題点」とは何か。
それは「飽き」である。

オープンワールドは、その広さゆえに、全ての要素を遊びつくすのに膨大な時間を要する。
だからこそ、作品にハマったプレイヤーは、ある程度の金銭をかけるだけで長期間ゲームを楽しむことができる。
要は、オープンワールドは「消費者(プレイヤー)サイドにとって、コスパがいいゲームジャンル」なのだ。
そのため、ちょっとのお金を払って遊びつくそうとするゲーマーが後を絶たなかった。

しかし、こうしたオープンワールドは諸刃の剣でもある。
プレイヤーはその膨大なコンテンツに「飽き」の感情を抱くことが少なくない。

ちょっとプレイに間が空いてしまえば、プレイヤーはゲームの中で何をしていたか忘れて「飽きる」。
それ以外にも、「面倒な移動が多過ぎて飽きる」とか、「システムそのものが単調」とか、色々な理由が考えられるが、最も大きいのは最初に語った間隔の問題だろう。
一気にプレイできないボリュームだからこそ、どこかで空いた時間の埋め合わせで面倒な感情を抱く。
そして、数千円程度というコストがかからないものであるがゆえに、より面白いタイトルが出れば「そっちがやりたい」と思って積みゲー化するリスクも大きい。
コスパが良すぎるがゆえに、全て味わう必要がないのだ。
ゲーム側はそれを理解していて「別に全部やらなくてもいいよ」というスタンスを取るので、「じゃあクリアも必要ない」と飽きられがちである。

私は、ティアキンはこの問題に関しては、今のところ解決できていないと思っている。
確かにゲーム性はとても面白く、遊びがいがあるし、やりごたえも十二分に確保されている。
そして祠の謎解きはジャンルを超えてパズル的思考を活かすことができるから、より楽しめるように仕組まれている。
しかし、祠の謎解きは一部を除いて「クリアとは関係ない」。
だから、謎解きが好きな人は祠を消化したら飽きる。
ストーリーも悪くはないが、任天堂らしいちょっと子供向けな展開になっているので、飽きたプレイヤーを呼び戻すほどの魅力がない。
飽きたときに「戻ろうかな」と思わせるような、強いモチベーションを生む要因がない。
そこに関しては、今まで見てきたオープンワールドと同じ構成になっていて、残念な所だった。

・「飽きないオープンワールド」とは何か


では、飽きないオープンワールドなど存在するのだろうか。
私は、二つだけそれに近いゲームを挙げることができる。
「Death Stranding(デススト)」と「NieR:Automata」だ。

この二つのゲームの共通点は、「ゲーム性の急変」である。
デスストはゲームの序盤はBTから逃げ惑うホラーゲームのような逃走劇をすることになるが、ゲームを進めるにつれできることが増えていく。
その中でBTの敵対方法を手に入れることができ、ゲーム性がBTを退治するゲームに変化していく。
しかも、この変化はグラデーションのように一辺倒ではなく、プレイ中に不慮の事故が起きて攻撃ができなくなったり、移動設備が使えなくなったりなど、「不自由」を用いてプレイヤーを拘束することで二転三転する。

NieR:Automataでは、周回するごとにプレイヤーの操作するキャラが変わることで、ゲーム性が変わる。
2Bを扱う一周目はアクションの面白さとそう快感を味わえ、9Sを扱う二周目はシューティングやハッキングを用いたちょっと変わった操作が行える、というものだ。
こちらに関してはあまり変化がないうえに、ゲーム中を通してシューティングの出来は微妙だったことを含めると、手放しに「超面白かった」とは言い切れないが、これもゲーム性が急変していると言えるだろう。

このようなゲーム性の急変は、プレイヤーの興味を失わせない。
単調な操作に埋没しないし、目標への達成感が大きく変化するからだ。
特にデスストの変化は見事なもので、プレイヤーが「そろそろゲームの遊び方に飽きてきただろうな」というところで的確に新しい要素を盛り込んだり、縛りを入れたりしてくる。
だから、プレイヤーは「飽きない」。
不自由と自由という、飴とムチが完璧に調整されていることで、常に課題提供と解決の達成感を味わえるからだ。
無論、その飴とムチに入らない要素もゲーム内には存在しているが、それらはことごとくゲームの本筋とは関係がない位置に設置されている。
だから、プレイヤーは驚くほどに「クリアしやすい」。
全部を遊ばなくてもクリアできるが、クリアまでの導線が丁寧に用意され、それがゲーム性を変えて飽きを与えないからこそ、「とりあえずクリアできる」のだ。

こうした「逆説的にも見えるオープンワールド」こそ、自分が求めている課題を解決した作品であり、オープンワールドの革命児である。
ティアキンは、残念ながらここには入らない。
滅茶苦茶に面白いが、求めている問題を解決した作品ではなかった、とは思う。
無論、ゼルダにこれを求めるということがどだい無理な話なのかもしれないが…。

・最後に


ここまで色々と語ったが、本稿はお察しの通り、「ティアキンをダシにしてオープンワールドというジャンルにお気持ち表明するだけ」という、かなり自己中心的な記事である。
しかし、オープンワールドが常に革新を求められるジャンルであるのは、ひとえに「プレイヤーの飽きと戦う」必要性があるからだ。
だから、私はオープンワールドの新作が出るたびにその命題を掲げながら注目しているし、ティアキンもその視点を失わずに遊んでいた。
そして、その「飽き」の視点だけを見れば、ティアキンはその課題を乗り越えていなかったと感じた。

しかし、意見が二転三転しているようでよくないのだが、私はティアキンというゲームがつまらない、面白くないと言いたいわけではない。
あくまで理想回答の頂点にいるわけではないという話である。
「飽き」への理想解として提示したゲーム性の変化は、明らかにティアキンで出来ない要素であり、本来期待してはならない部分である。
そういう意味で「ティアキンをダシにしてしまった」と解釈していただきたい。
そのうえで純粋にゲームだけを見るのなら、二日間の間私の興味を惹き続けて話さなかった中毒性、冒険感、ゲームとしての面白さは洗練された名作そのものである。
ティアキンをダシにしてしまったことは大変申し訳ないが、最後にこのゲームは神ゲーであり、オープンワールドというジャンルにとっても重要な作品であるという個人的な意見だけは残しておきたい。



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