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俺は「あめちゃんわくわくデートゲーム」で彼女の奥底を見た

※本記事は、私が『俺は「Needy girl Overdose」が嫌いだ』『俺が「Needy Girl Overdose」に思う、「理想」と「宗教」の話』『電波ゲー好き×創作者の「ニディガ対談」の全貌』を執筆したうえで、「プチゲームコレクションvol.1」をプレイし、「あめちゃんわくわくデートゲーム」の内容に言及するものです。
当該記事をお読みになっていない方は、そちらをお読みいただけると内容がより深まると思います。
また、「Needy Girl Overdose」及び「あめちゃんわくわくデートゲーム」のネタバレを含むため、ご一読の際はお気を付けください。


2年ぶりに俺は彼女に再会した。

ふとした気の迷いだったんだと思う。
「やりたいことがしたい」という精神で「Needy Girl Overdose」に向き合って、色々なことを言っていたあの頃の俺はもう欠片もなくなっていた。
今の俺は社会に怯え、会社に怯え、上司に怯え、襲い来る月曜日に怯える悲しい人間に成り下がっていた。
最初はまだ何かをしようという気概に溢れていたが、日々仕事のウェイトが高まっていくことで、押しつぶされて何も出力できなくなりつつあった。
だから、なんだか急に「彼女に触れてみてもいいかもな」と思ってしまった。
思えば、会社の帰り道に「Internet Overdose」が流れたらもう一回戻して聴いてしまうぐらいに、俺は彼女に戻りたいと思っていたのかもしれない。
あんなにも「虚無だった」彼女に。
「ネタになればいいかな」ぐらいの気持ちで。
また彼女のもとに帰った。

「Needy Girl Overdose(以下、本編と記載)」のファンディスクのような「プチゲームコレクション vol.1(以下、本作と記載)」には、「わくわくあめちゃんデートゲーム」というサウンドノベルが存在する。
本編中にあった「デート」の内容を補完したような作品だ。
ネタをデート後の配信で話すので割と本編を補完しているように見えるが、突然彼女側から「デートしよ!」とか言ってくるので、全く同じ展開かと言われると割とそうでもない。
ほとんど彼女とのデートの思い出など忘れていたが、新鮮な気持ちでやればいいだろうと、俺は気楽にスタートボタンを押した。

…まぁ、彼女は相変わらずだった。
ゲーセンに行くとオタクと過ごした過去を述懐し、鮮やかなコマンドを見せつけ、達観したかのようにゲーセンのオタクの立ち位置を語る。
病院では自分の精神と戦いながらも、ピの存在に救われている彼女を見つけることができる。
どんな時でも彼女は達観した思想を語り、何か遠くを見ているかのように言葉を紡いでいく。

このゲームをやってみて思ったのだが、俺があめちゃんに感じていた感覚は、「ギャップへの違和感」と「混ぜすぎて虚無になった何か」という二つの要素を持っていたのではないだろうか。
特に本作では、あめちゃんの過去が「中卒」や「誰かにいじめられていた」「自分の精神と戦っていた」という発言で表現される。
そこで彼女のバックグラウンドがある程度理解できるのだが、そこから紡がれる言葉はあまりに大人びているし、異様なまでに知的で魅力的だ。
そこにあるギャップに、「拒絶反応」を示していたのだろう。
虚無感というごった煮の要素もあるが、それ以上にあめちゃんのビジュアルやバックグラウンドと、語っている言葉の乖離が著しいからこそ、上手く受け止められないという現象に陥っているのだろう。

なんとなくだが、本作のあめちゃんにはごった煮すぎるが故の虚無さではなく、シナリオライターの背景像が見えていた。
なんというか、彼女が語る言葉は「にゃるら」氏の言葉なんじゃないかって、そんな風にとらえていた。
あめちゃんが妙に高尚な言葉を話し出すから、後ろにいる「文章を書いた人間」の像が浮かび上がってきたのだろう。
シミュレーションでちょっとお茶を濁したり、メンヘラ要素でお茶を濁していた本編では絶対に感じなかった感情だ。
強烈な違和感のもとはそこにあるのだろう。
特に、「太宰治って恋人と川へ心中したけどさ~」から始まる海でのセリフは、おおよそ彼女に似つかわしくない言葉だったと俺は思う。

本作は、そんな「シナリオライターが透けるあめちゃん」とデートで様々な場所をめぐる。
彼女は「自分だけ」と「自分とピ」の境界を行ったり来たりして、自分と世界を表現する。
「自分だけ」とは、「自分が配信者として努力している」「自分だけが心の苦しみと戦わなければならない」という気持ちを指す。
一方で、「自分はピがいることで他人よりも優越感を持っている、幸せだ」「ピのおかげでここまでいられる」という、他社がいることへの幸福感も同時に見せる時がある。

これは彼女の不安定性を象徴するような流れだが、どちらにも彼女なりの意志がある。
「自分だけ」の言葉には、彼女の「伸びていくことへの不安感」や「自分の見つめたくないような過去」、「それをもってしてでも栄光にしなければならない、超てんちゃんとしての責任感」というものが見える。
一方で、彼女の語る「ピ」の存在は、あめちゃん自身が自分の不安感を払しょくするがために彼(彼女)が存在しているような、そんなぽっかりと空いた虚構のような感覚がある。
本編でわかる「彼女はひとりで、ピなんて存在しない」という(明言されていない)事実は、そんな見えない何かを掴むような虚構感に存在しているのだろう。

ただ、俺は彼女の「ピ」の存在感には同意しなかったが、彼女が先に語る不安感には同意していた。
そう、彼女に共感していた。
…あんなに虚無と言っていたのに。
彼女が語る「自己の存在理由」「責任感と不安」「孤独になっていく自己」は、驚くほど今の自分に当てはまっていて、気づけば彼女の言葉を受け入れていた。

…なぜだろうか。
といっても、理由は自分でも割とわかっている。
自分の環境の変化によって、責任感や重み、息苦しさを感じているからだろう。
環境が変わり、自分以外の人間を(身体的にも感情的にも)変化させてしまう今の環境で、常に誰かの顔色を伺って不安になるような息苦しさが。
それを、彼女も(もちろん全く別の形、別の重さだが)感じていたのだろう。

そして、その対処法も同じように見えた。
俺は、自分を責め続けていた。

ミスする度に自分が悪いと思って、自分をすり減らし続けていた。
それがなけなしの自分の重みを和らげるための、心のリストカットなのかもしれない。
ミスによる痛みをより強い自責の痛みでかき消す。 
あめちゃんは他責も全然するが、今の自分の価値が高すぎて納得出来ていないからか、時々自分は釣り合わないと自分を責める。
自分を傷つければ、苦しくても本当に苦しい時になんとかなるから。
そんな思いだったのかもしれない。
自分も今の仕事に釣り合っていないと感じることが多々あるから、彼女の「自分の価値を認められない」という感情に、何か同意するような部分があった。

それを見越してなのか、彼女は達観しつつも力強い言葉を吐いていた。
体制的なものの象徴でもある学校を極端なまでに敵視しながら、自分の居場所だったインターネットにいた(であろう)ゲーセンのオタクも冷ややかな目で見ていた。
成長した彼女は他人に対して自己の主張を吐き出すような職業をしているが、一方で他人のことを「どうでもいい」と思っているような雰囲気さえ感じさせる言動をしていた。
おそらく、「自分がどうあるか」が彼女の全てであって、彼女の周りにいる人間など、たぶん「どうでもいい」のだろう。
金になることだけはわかっているが、それ以上は関わらない。
そんなあめちゃんの持つ極度の「無関心」には、俺は自然と惹かれるような思いがあった。
そうすれば他人の目を気にせず、何も考えなくて済むからだ。
無関心でいることは好きでいることの対局なのだろうが、そうすることで苦しみから逃れられるのなら、よっぽど幸せなことだと思う。

しかし、俺は自分で彼女を「虚無」と言い張り否定していたのに、今回なぜここまで急に共感しているのだろうか。
正直、自分で自分が嫌になるぐらいである。
意味もなく善意の言葉を吐き出すだけの存在に、なぜ共感しているのだろうか。
彼女が好きな皆さんには申し訳ないが、正直彼女に共感していることに嫌な感情さえ覚えている。

…考えてみると、おそらく俺も「誰かに裏切られた」からで、もう「誰も信じられない」から、彼女に共感しているのではないだろうか。
俺も、信じようとした人に裏切られ(たと思い込んでいるのかもしれないが)、苦しんだ経験がある。
そんな時、人は「そいつが裏切ったから悪い」と他責的に考える一方で、「自分がふがいないから裏切られたんだ」と自虐的に考えてしまうこともある。
俺の場合は後者で、自分だけで重みを背負って、その重みで段々とおかしくなっていったのかもしれない。
その途中で、似たようなあめちゃんを見たから、妙に共感できたのかもしれない。

しかし、よくよく考えるとこの行為は簡単に回避することができる。
他責的に考える以外に、「もともとの信頼レベルと同等の存在を作り出す」ことで回避ができるのだ。
彼氏を失ったのなら、別の彼氏に信頼を置けばいい。
そうすることで他者を傷つけることなく、問題を回避することができる。

人は一人では生きていけない。
だから、みんな誰かにすがろうとする。
 
安心や幸福、救済を求めて。
神様だって、超てんちゃんだって、あめちゃんにとってのピだって。
みんな同じなんだ。
それこそが人がしなければいけない依存であり、社会性であり、良い意味での承認欲求や愛情なのだろう。

しかし、それが裏切りによって受け付けなくなってしまったら?
それを長く放置したが故に1人になり、すがる存在すら見つけられなくなってしまったら?
あめちゃんの前にある「現実」はそういったもので、それを見て壊れないように、彼女は「ピ」による自己防衛をしている。
彼女にとって、「ピ」とはなくてはならないもので、それを無視したり否定してしまうことは、彼女の孤独感や不安を刺激することなのだろう。
実際、彼女がピを否定しているエンディングでは、彼女は全てが信じられなくなって狂ってしまう。

俺は当初このゲームが嫌いな理由を「インターネットから解脱しろ」という社会性の問題と捉えていた。
それは、超てんちゃんの語る綺麗な理想像と、オタクたちの強固な信仰、インターネットを抜け出す真エンディングに見つけられる。
しかし、あめちゃん自身のキャラクター性、彼女とピという2人だけの関係性だけで見ると、このゲームたちの主題は「人間の依存性」に変わる。
あめちゃんの不安定さ、インフルエンサーとしての責任感、OD、それらがピの依存により安定化されていることが、本編でも本作でも描かれている。
とりわけ、本作は地の文があることで、プレイヤー=ピの視点が把握しやすいのだろう。

じゃあ主題が変わった今は好き嫌いはどうなのかと言うと、やっぱり好ましくは思えない。
というのも、作り出した依存に溺れているくせに、結局は本編隠しエンドで「あなたは必要ない」と言って去っていくからだ。
彼女はあの時点で1人でもやって行けることを証明した。
それは、依存によるものではなく、自己成長だけで生きていくという、ある種希望的観測のようなものがあるのだろう。
しかし、これは根本的に誰かに依存していなければ実現しない。
依存し、何度も自滅してから自己実現したあめちゃんは、「自滅してからやり直せる」ぐらいのメンタルリセットを行うことができる。
これはゲームが最初に戻ること、つまりリセットを行うことであめちゃんが初期化されるということだ。
これが起こることで、あめちゃんは何度でもやり直せるメンタル維持をゲーム上で行うことに成功している。
だから、最終的に「あなたは必要ない、一人でも実現では出来るんだ」と言い張って消えていく。
ゲームのキャラだからできる行動だし、自分から見るとあまりにもズルい。

ただ、本作は依存に溺れたうえで、彼女の実家に行くときに「あれを見ても私と一緒にいてね」と言って終わる。
彼女の言う「あれ」がなんなのかはわからないままだが、彼女はずっとプレイヤーと共にいたい、依存していたいという本心を見せる。
そんな弱さがあるのだから、俺が超てんちゃんに見ていた「虚無感」は薄れていて、等身大の人間が見せる精神の苦痛、人間らしさに「共感」していた。
本編で承認欲求に溺れまくって伝説になる超てんちゃんと、逆説的に全てを否定しているあめちゃんの、異常なまでの乖離。
逆に言えば、その乖離があったからこそ、本作を通じて俺は初めてあめちゃんを正常な目で見て、理解しようとしたのかもしれない。

そして、そんな共感を得たうえで自分の考えを見直してみると、超てんちゃんが好きな人たちは、あこがれや羨望などではなく、共感の目で彼女を見ていたんじゃないか、という思いがある。
彼女の裏側が見せる「弱さ」が起点になって、超てんちゃんの「強さ」にも惹かれていったんじゃないだろうか。
あめちゃんのように精神的に色々と苦しんでいても、同じような人であっても、超てんちゃんのように輝く存在になれる。
そうした二面性を見ることで、彼らは彼女にのめりこんでいくのだろう。
とはいっても、それが宗教レベルで推すようなものなのかはいまだに疑問が残るのだが…。

人間は、誰かに依存しなければ生きていけない。
その社会性の拡張を、本能的に求めてしまうのは人間の性だ。
しかし、その依存性に「虚構」が織り交ざることによって、人間社会は極端なまでにいびつな人間関係を構築してしまった。
インターネット上の誰かに依存した結果、現実で孤独になってしまうような例も少なくない。
それが悪いことだとはサラサラ思わないし、自分もそんな立場に近い人間ではあるが、何よりもそれに依存しすぎた結果、期待を裏切られすべてを失ってしまっては元も子もない。
あめちゃんは「ピ」を作り出すことでそれを回避しようとしたが、それも結局は大半が破滅に終わっている。
そんなものを作るぐらいなら、何かもっと別のものを見つけた方がいい。
自分は、彼女のように別の人を作り出すようなやり方よりも、人に見てもらうように自分という存在の形を明確化した方がいいと思う。
趣味をアピールしてみるとか、新しいことにチャレンジしてみるとか。
難しいけど、そういった解決法が一番いいのかもしれない。

…これ、超てんちゃんも言ってなかったっけ。
やっぱり彼女と同じ考え方になるんだから、このゲームは嫌いだ。


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