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【考察】「街」の市川、隆士に思うこと

先日「街-運命の交差点」をクリアして、記事を書きました。
あの時はネタバレを極力せずに記事を書いたので、結構本当に言いたいことが書けなかったです。
ここで、ネタバレ全開で主人公のうちの「市川文靖」と「高峰隆士」に思うことを書いていこうと思います。

ネタバレ注意です。
あと、完全に個人の意見でも何でもない、自分語りのようなものなので、苦手な方はこの後の読了は控えてください。
「街」のレビュー記事をご覧になってない方は、そちらも見てくださると非常にありがたいです。

0.ストーリーのおさらい

一応このゲームは20年前の発売なので、簡単にストーリーをさらっておきます。思い出し程度に読んでください。
覚えとるわ!って方は1から読んでいってください。

まずは市川シナリオ。
彼は純文学小説家「市川文靖」の中に、陳腐であり俗悪である、性と暴力の脚本家「小人たち(中島哲雄)」がいることに悩みを抱えていました。
小人たちは市川の逆手である左手に宿り、市川が寝ている間にテレビのプロットを書いては局に送り、中島哲雄という名前でテレビ業界で成功し続けていました。
市川は局Pの木嵐との会話の中で彼が純文学を愛する青年であることを知り、純文学最高傑作を作り上げることを決心しますが、またしても寝ている間に小人たちの作る<B・O・D・Y>という作品がFAXで出されてしまいます。
日が経つごとに彼の精神は摩耗していき、赤外線カメラでも写真現像でも小人たちを探し当てられなかった彼は、ついに自分の左手をマチェーテで切ることで小人たちと決別しました。
物語は、彼がコンビニで切断した左手を俗物の代表であるカバ沢に送り付けた後、道端で倒れるところで終結します。

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次に隆士シナリオ。
彼はフランスのレジョンという軍隊に所属する軍人。
フランスから密航して渋谷にたどり着きます。
渋谷に着いたものの自分のいる意味がなく、居場所を探し放浪する日々。
実家に戻るも、父親との軋轢の中で彼は二度と帰らないことを宣言し、出ていってしまいます。
その後、「もやい」が口癖のホームレスのオッサンと出会ったり、チンピラに絡まれたりする中で、人々と交流しては分かれていきます。
友人である井畑に電話し一緒に飲みに行ったり、元カノの晶子と出会ったりしますが、結局どちらも隆士を理解することなく去っていきました。
その後、ホームレスのオッサンが南京上陸時代の軍人であることを教えてもらった彼は、共感を感じるとともに街を出ることを決めます。
しかし、彼はホテルを出て空港に向かう最中に、銃声が花火の音にかき消されるように弾を一発胸に受けました。
その後、花火を仰向けに眺めながら彼の物語は終わりを告げます。

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どちらも分かりづらいストーリーだと思います。
特徴としては、街の中でも一人称に拘っている点にあるような気がします。まぁそんなことは置いといて。ここから本題です。

1.捉われたふたり

市川シナリオ、隆士シナリオの全編を通して言えることとして、二人とも何かに捉われていることが挙げられると思います。
市川は左手に宿る陳腐で俗悪な人格、隆士は殺人に対する快楽の感情とレジョンという居場所。市川も隆士もどうにかしてこれらを払拭しようと躍起になります。
だから二人とも突拍子のないことをよくしますし、それは普通の人から見れば「狂っている」ように見えます。
市川は左手を縛ったり、蜜柑をカラスに投げつけたり。隆士はほぼ絶縁状態の実家に帰ろうとしたり、道行くチンピラに(正当防衛でありながらも)暴力をふるったり。
彼らの持つ囚われの現実から逃れること、これが二人の中にあるテーマのように思いました。

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市川も隆士もそうなんですが、彼らはこぞって幻覚あるいは悪夢を見ています。
隆士は過去の殺人。
市川は小人の世界。
しかし彼らからすると、この「現実」あるいは「過去」の縛りから解き放たれること、それは自分の地位や今いるものを壊すことに他ならないのです。
そこにどう折り合いをつけていくかも、彼らに突き付けられた試練と言えるでしょう。
市川は木嵐との会話の中で「市川文靖」を認め、テレビにおける純文学の発展に貢献してくれるようでもありますが、それは今の「中島哲雄」が作り出した地位を破壊することにもなりかねません。
隆士の選択はいかようにもなりますが、結果としてはレジョンに戻る以外の選択肢はすべて地位の破壊に繋がります。
市川にとってはこの街の人間関係は数人を除いて無意味なものであり、隆士にとっては、渋谷はたった一人を除いて死んだ街でしかなかったのです。
次は、そんな「たった一人」のお話をしましょう。

2.晶子と市川、隆士

市川と隆士、双方のシナリオにおいて忘れてはいけない存在が、「末永晶子」です。
彼女は市川、隆士の双方に厳しい現実を突きつけ、彼らの目指しているものを否定しようとします。
僕は最初見た時「なんて嫌な奴なんだ」とか思っていましたが、よくよく考えると彼女が一番まともであり、救済でもあるように感じます。
結果としては二人とも彼女を否定することになってしまうのですが。

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彼女との出会いはシンプルかつアッサリとしています。
スペイン行きを告げられてもなお、自分のことを機にかけてほしい市川。
確かに晶子に会うまでの4日の彼を見る限り、小人たちが残したダメージは相当深刻なものであり、晶子は慰めをかけるべきにも感じます。僕もプレイ時にはそう感じました。

ただ、彼女は優しい言葉を多くはかけませんでした。
半ば呆れているかのように言う彼女の「もっと楽しい話をしない?」は、去り行く自分のことなど忘れて小人の話しかしない市川に対する最大限の寂しさの表れであるとともに、彼に慰めをかけることは無用であるという達観した考えを示しているようにも感じます。
彼女の言葉はトゲがありながらも、市川を前に進ませる要素だったのかもしれません。

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隆士も同じです。
彼女は表れて早々に隆士にキレ始めます。
というかまぁ何も言わずにフランス行かれたらそうなるような気もしますが。
まぁ、彼女の場合は「けじめ」をつけるだけであり、隆士に会うことで彼を変えようとする気はあまりないように思われます。

ただ、彼女自身の残した言葉は的確に隆士がここにいてはいけないこと、隆士が自分と関わることに意味はないことを伝えていました。
隆士の最期の走馬灯のようなものの中でも、晶子は「あなたはどこにも行けない」という一言を残し、隆士が捉われていることを伝えたうえでこれから死に向かっていくことを暗示させています。

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彼女は「現実」であり、逃げようとしていた市川、隆士に辛さと方向性を提示した存在です。
こんな人が身近にいると、自分が道を外した時にも助けてくれるかもしれません。
もっともそれを飲み込めるかどうかは当人の感情次第だとは思いますが…。

3.彼らと死とは

ここからは、彼らのエンディングに関して。
彼らは、結果的に花火が撃ちあがるタイミングでどちらも息絶えたかのような描写を表しています。
市川は右手の勝利。
隆士は花火を見上げながら。
少なくとも僕は彼らは死んだと考えています。
結果的にではありますが、彼らは死をもって捉われから解放されたと考えているからです。
彼らの死は今後の希望を無視した「今ある問題のみを排除した結果」であり、彼らもしくは運命の「答え」のように感じます。特に市川は。

市川は死の間際に左手を空に掲げ右手でキーボードを打ち込むような動作をし、自らの勝利を宣言します。
しかしそれは未来における純文学作品を書くことと同時に、自らの問題は死することでしか解決できなかったということの表れでもあるように感じるのです。
最後の力を振り絞ることでしか理想の作品は作れなかった。

4日目、桂馬シナリオのバッドエンドでは、市川の部屋のPCに意味不明の文章が書かれていたことがわかります。
その文章は小人たちではなく、市川本人が書いた文章と言えるでしょう。
中島の書いた文章は完成されたものでしかなく、桂馬という一般的な人からすれば傑作と捉えられるからです。
つまり、左手である中島を残したままではいい作品なんてのは到底生まれなかったと言えます。

ではどうすれば市川は傑作を書けたのか。
僕は、市川の持つ純文学の夢は、左手の切断でしか表現しえなかったのではないかと思いました。
晶子を拒んだのも、自分がそんなまともな方法で、前を向いて歩きだしたところで意味がないことに気づいていたからだと思います。

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隆士は運命に翻弄されたかのような死を迎えますが、ある種問題を排除しているわけです。
隆士の殺人衝動との決別は、死をもって行われた。
もちろん南に逃げて、新しい生活を初めても良かった。
新しい居場所を探しに行く旅をしても良かったのかもしれません。

ただ、運命が作り出した答えは死でしかなかった。
それは今までの人間関係をすべて捨てて出ていくことは、隆士の持つべき答えではなかったということだと思います。
結局それは逃避でしかないから。
仮に南、アフリカで生きようとしても、結局彼の中にあるどす黒い感情が消えることはないでしょう。
おそらく、隆士もわかっていたはずです。
だから、そんなバッドエンドは許さない。それが、運命が導き出した答えだと僕は思います。

4.なぜ僕は「花火」で涙したのか

最後に、アフターシナリオともいえる「花火」のお話をしましょう。
作中で僕は涙しました。
なんでか、という部分を考えながら、ここを書いていこうと思います。
「花火」のシナリオは、非常に短く結果も驚くほどシンプルなものですが、作中で一番感動できるストーリーだと僕は思います。

まずはあらすじから。主人公は高峰厚士。
厚士は初日から隆士の夢ばかり見るようになっていました。
それは予感であり、実際に二日目に隆士は実家に帰ってきます。
ところが、厚士は隆士と喧嘩して彼を追い出してしまいます。しかも隆士の暴行により病院送りになります。
その後目覚めて、病院で隆士に花火を見せてあげたいと思った厚士は、佐久間を通じて日本各地に花火を上げるよう動かせ、5日目に花火を上げます。その時間は、隆士が生まれた時間でした。

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この物語は、一見するとシンプルではありますが、隆士の辿った結末を見ると恐ろしいほどに皮肉が効いたストーリーでもあります。
厚士の打ちあげた花火は結果として銃声をかき消すこととなり、発見が遅れることになってしまいました。
彼は結果的に花火を見ることはできますが、厚士の願っていたような花火の見方はできませんでした。
運命が悪いように交差し、彼の命は花火と共に尽きていったのです。
いわばすれ違った思いの悲しさがあると思います。

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そんな悲しさの裏に、隆士シナリオは花火の意味を見透かしたかのような文章を残しています。
それは、「胸が熱い。畜生、焼き付きそうだ。」というセリフ。
銃で胸を撃たれた痛みの表現でもありながら、花火を見て感動しているようにも感じます。
そう思うと、「畜生」という一言に、父親に対する小さな愛情のようなものが残っているようにも感じます。

実際、彼は終盤で「親父を愛していたのではないか」と自問します。
彼の世間や日本社会と別れてしまった悲しみ、それを完全に否定しながらも結果的には花火をみて親父のことを少し思ってしまったかのような演出は、彼の中にある父親や社会への愛が垣間見えたような瞬間でもあるように感じました。

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僕が泣いたのはそんな理由の重なりだと思うんです。
結果的に隆士と厚士は別れてしまったけど、花火というものでつながっていた。
でもその繋がりを示したのと同時に、彼は絶命した。
そんな複雑な思いが混ざり合って泣いていたと思います。

5.市川に、隆士に、自分の思うこと

ここからは自分のお話。

「ペルソナ3」から始まって、「アバタールチューナー」やこの作品をやっていくうちに、「命の答え」「死」というものを考えるようになりました。「ペルソナ3」は「命の答え」を主人公の死をもって証明したゲームです。彼の死は、絶対的死そのものの封印として残りました。
そして、市川と隆士。
彼らの死は、捉われからの解放であり、ペルソナ3の主人公と逆のようにも感じます。
しかし、彼らも「ハッピーエンド」として「街」の中ではカウントされます。
自分の何かを封印するために死ぬことも、自分の何かを解放するために死ぬことも「ハッピーエンド」扱いになるんです。矛盾してますよね。

僕は、つい最近になって社会に対して複雑な感情を抱くようになりました。一つの別れがキッカケで交流している人の大半と接することに抵抗感を覚えました。
人生設計の失敗でもうどうにでもなれってヤケクソになりかけていました。
人と接することで苦しむぐらいなら自分は苦労したくないなんて考えることがありましたし、コミュニティも全部捨てて逃げてやろうか、というある種隆士のような気持ちになったこともありました。
潔く自分の存在ごと消してやろうかとも思いました。本当にここにいることが辛くて辛くて、どうしようもない自分が大嫌いでした。
本心を打ち明けても理解されないだろうと思って、何も言えないまま日々が過ぎていきました。

そんな時、ペットの犬が亡くなりました。
ほぼ老衰状態でいつ死んでもおかしくないなんて医者から言われていました。
でも、亡くなったと聞いて家族はみんな泣いていました。
亡骸が引き取られて対面した時、僕は自然と泣いていました。
なぜか思ったんです。生きないとダメなんだなって。
本当に全部嫌で嫌でしょうがなくて、何もできない自分が嫌いで、気にかけてくれる人なんてもういないなんて思っていた。
けど、そうじゃなかった。
あの時家族が泣いているのを見て、自分も泣いていて、誰かを本当に失うことの悲しさに直に触れて、どうなっても生きていようと感じるようになりました。

そんな折、ペルソナに出会って、街に出会った。
人間と人間が関わり合っていくゲームを続けるうちに、自分が今まで作ってきた物を無理やり引き裂いてまで生きていくのは辛いだけなんじゃないかって感じるようになりました。
ただただ悲しいから逃げようと思ったって、そこから逃避したって結局苦しい感情は消えない。隆士の結末のようでもあります。
逃げても壊しても意味がないのなら、今あるものを大切にしなきゃいけないし、また前を向いて進まなければいけない。
今僕の前にはたくさんの道がありますが、その一つ一つを落ち着いて考えて、自分が今出せる答えを見つけていくことが、自分の罪滅ぼしとゲームたちへの恩返しになると思っています、

市川や隆士のような感情は今でも残っています。
多分自分の今の境遇を理解してくれる人間は、今でもほとんどいないような気がします。
それでも、やっぱり気にかけてくれる人とか、困ったら支えてくれる人がいるんです。
晶子みたいに、狂ってどうしようもなくなった時に客観的な立場から道を示してくれる人が、僕の周りにはいました。
だからこそ、今こうして記事を書いていられると思っています。
要は人との繋がりって大事だねって話です。複雑でごめんね!

6.死はゴールなのか

自分の中で生まれた一つの問い。

「死」とは、「ゴール」なのか。

これが僕の中にあったどす黒い問題でした。
答えは結構微妙なのですが、

「死はゴールだが、人生は借り物競争である」

です。馬鹿みたいですけどね。
死は確かに人生のゴールテープです。
ゴールが突然迫ってくることもありますし、緩やかにゴールまで歩き続ける人もいるでしょう。
自分でゴールを作り出す人もいます。
ただ、人生は借り物競争なんです。お題は「答えを探せ」。
つまるところ、自分のいる理由、アイデンティティを求め、たどり着くことに死というゴールまでの道は存在していると思います。

結局、全部同じ話だったんです。
市川も隆士もゴールにたどり着いただけ。
各々の捉われからの解放、自らの起こした悪夢の封印、それは結局単なるゴールだったんです。僕も同じ。
周りにどれだけ人がいても、結局自分は死ぬ。
じゃあそこまでにどれだけ自分のアイデンティティを見つけられるのか。そういう話だと思うんです。
だから人生のゴールテープをすぐ切る人もいれば、のろのろと歩く人もいる。
社会から外れていく人もいれば、社会に飲み込まれて行く人もいる。
その生き方の選択の中で、どれだけ自分の生きる価値に気づけるかが、人生そのもののような気がします。
自分のような若輩者がこういうことを語るのは、ある種バカバカしいような気もしますが、今の自分なりに出した答えはこういうものです。

7.終わりに

なんか死ぬほどクサい文章書いて申し訳ありませんでした!!!!!!!
イカれた文章も思考も、一旦は吐き出すことが大切だと思うので、市川や隆士に思ったことをまとめるついでに、自分の中の気持ちも整理しようと思って出しちゃいました。
ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。
汚い文章に付き合ってくれて本当に感謝しています。
これからもよくわからないゲーム関係の記事を書いていこうと思うので、よろしければ今後共々よろしくお願いいたします。ではまた。

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