子育てが自分の子ども時代の生き直しとなることと、その是非

効いた風なタイトルつけてみました😅
これずーーーっと下書きで放置してたのですが、アップしないといつ迄もこのままなのでエイヤッと。

育児してると、自分が子の年齢だった頃に起きたこと言われたこと等が、まざまざと蘇って来て「あの時私はこうしたかったな(でも上手く行かなかった)」とか「あれは良い気付きだったな(是非我が子にも体験させてあげたい)」などということを、折に触れて感じます。
それは良いことでもあり、危ないことでもあるという話。

よく、子あり子なし論争で昔の人が言った「子を持って一人前」という言葉が取り上げられたりしますが、何を以て一人前と言うかは時代や置かれた背景によって違うにしても、少なくとも今の時代の価値観にはそぐわない話です。
ただ、子を持つ=親になるということは良くも悪くも他者の人生を背負うことなので、そのことによってしか体験できない貴重な経験をさせてもらえるところは有ります。楽しい面も有れば、ある意味十字架をひとつ背負うような重苦しい側面も有る。

子ども時代は誰にでもあるのだけれど、それを客観視できる機会はなかなか持てなかった人も多い中、育児を通して半ば強制的に子どもだった自分と対面させられるようなところが有る。同時に、記憶の中の当時の自分の親とも同じ親の視点から対峙させられて、育児を通して自分の親と和解する方もあれば、逆に育児を通して親との関係に決定的な亀裂が入る方もいらっしゃいます。自分が子どもの頃(当事者だった頃)には気が付かなかったけれど、あれはどう考えても毒親だったとか、精神的な虐待であったとか、それが今の自分にどれ程影響してるかに今更のように気がつくというケースも有ります。呪いが解けてしまうみたいな感じ。

こういうのはとても重要だと思う反面、厄介でもあって、それはあくまでも「自分自身が辛かった/させてもらえなかった」体験でしかない。何事も参考にすることは正しいですが、その呪いは自分にかかっていたのであって、まだ呪いがかけられてない我が子を過剰に守ろうとしたり、ましてや呪いもかかってないのに呪いを解く儀式をしたりする必要は無いのです。
だけどこれをどうしてもやりがちな事実。
何故ならば愛が有るから。
辛かった自分の二の轍を踏んで欲しくないから。

転ばぬ先の杖は転びそうなところを行く場合に持たせてあげたら良いのかも知れないけれど、例えば自転車乗ってるのに杖持たすとか、転ばぬ先の杖だけじゃなく撃たれる前に防弾チョッキとか、落ちる前のパラシュートとか、滅多に遭遇しない各種病気のワクチン全部打つとか、そういうことを全部やってしまいそうなのが、育児の闇。更に、これも持ってた方が良い、あれも持ってた方が良いという武器も持たせては、子どもは自力で立つことすら出来なくなってしまいます。何よりも先ず自分の足で立つことが大切なのに。

子が短絡的なものの見方をしたり、生意気な口をきく時の親の立場には、自分自身への後悔と反省が含まれて来るから、余計聞くに耐えない。縁もゆかりも無い若者がやってることならば笑って許せても、自分の子がそうするのは絶対に許せないということは多々あります。
しかし、どれだけ似ていても子は自分とは別の個性なのです。別の人生を生きる者として、親がしてきた失敗と同じ失敗をする権利すら有る。
自分の記憶に鮮明に残る、悔しい思いや恥ずかしい思いと、今目の前にいる子どもが体験するかも知れない感情とを切り離して考えるのはなかなか難しいですが、例えば転んだとして、うちの子の場合は大した怪我にはならないかも知れないし、ひょっとして転んだ拍子に宝石拾うかもな、というような、そういう可能性だってあるわけです。

・・などと書いてみつつも、
ほんと嫌になるくらい学校の先生に楯突いて来て、部活も続かないし、可愛げのないことばかり言う息子を見ててウンザリ。
私のような人間にだけはなって欲しくないナ
と思う次第。😅
自分のした失敗はさせたくないし、今の自分に多少の能力が有るのならば、それは当然の如く息子にも獲得しておいて欲しいわけです。IQは高いかも知れないけれど、勉強はしておくれ!と思う。
愛なのか、自己投影の憐憫なのか、子の人生の上に何かを成し遂げたい我欲なのか、そういう綱渡りをしつつも、子はまた別の人生を歩んでいると何度でも自分に言い聞かせて行きたいものです。