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友に会う/孟母三遷(もうぼさんせん)

*写真は「みんなのフォトギャラリー」から、キーワード「引越し」で検索した、anpegさんの作品をお借りしています。ありがとうございます!

この記事またしても書きかけのまま放置しており、時期的に随分と遡っております。お正月明けてロンドンへ戻ったばかりの頃の話・・だから、かれこれ1ヶ月前か😅
しかも今回ちょっと「マダム」な内容が含まれています。この無粋な私がマダムの生活を書く合わなさってすごい。

<友に会う>
先日、年末年始の日本帰国で買って来たお土産を渡しがてら、ロンドン在住の香港人ママ友に会いに行って来ました。クリスマスに素敵なギフトをいただいていたので、御礼のつもりで。
友人はロンドンに住み始めて5年(私は6年)なのですが、ここ数年は毎年のようにクリスマスに大きな花束とシャンパンのセットを贈って下さります。季節の行事に疎い私はそういうの忘れてて、いつもいただいてからハッ😳もうクリスマスか!となる。実は私、クリスマスが誕生日でもあるのですが・・本気で抜けてるから怖いですね。息子も「プレゼントは特に要らない」派だし。

イギリス人の奥様方だと、こういったちょっとしたギフトはもう11月に入ったらすぐ用意を始めます。沢山買うからね。11月になると都会ではクリスマス商戦、田舎のほうでは学校の体育館(公民館みたいな位置付け)などを借りて「ウィンターフェア」なるものが開かれ、地元の雑貨屋さんや、普段は通販で取り扱ってる個人の方などが出店するので、そこである程度気の利いたものを調達できる。
元々イギリスの植民地であり、少し前までは実際にイギリス人が多く住んでいた香港でも奥様方中心にそういう文化が残っており、11月になるとちょっと表通りから引っ込んだホテルの一室などを借りて、目先の変わったギフト販売会などが幾つか企画されます。奥様方はそのような販売会を渡り歩いては、少しずつお世話になった方々への良い感じのギフトを買い集める、というのが昔ながらの良き習慣であり、冬を迎える楽しみの一つ。
無粋人間の私も、香港では声をかけてくれる友人に恵まれたので何度か顔を出したことはあり、またイギリスへ来てからも、息子の前の学校では保護者会が模擬店を出すので、ボランティアとして毎年手伝いに行ってました。行けば行ったで、何かしら買おうという気にもなるのだけれど・・自らの意思としては、なかなかなー。きっかけが無いとダメですね。「ていねいな暮らし」からは縁遠い私😅

ということで、確か去年もそうしたような気がするのですが、今回も年末年始は私たちは日本に帰省して過ごすことになっていたので、イギリス国内ですぐに似たようなものを手配してお返しするよりは、どうせなら日本で、少し目先の変わったものでも買って来ようかと思った次第。ちょうど帰省先からさらに旅行へも行ったので、3箇所くらいの地方の物産をアソートにして風呂敷に包んで持って行きました。これが今から思うと不思議な感じなのですが、そのあと能登地震が有ったので、今友人の家には石川と能登の幸がいっぱい。後から連絡が来て、心して食べるワ〜😢と言ってました。

お渡しした時も、友人はすっごく喜んでくれて、ほんと買って来て良かったと思いました。
風呂敷包みって、映えますよね!
たまたま実家に不織布の使い捨て風呂敷が有ったから包んでみただけなのですが、外国人の目からは非常に日本的で、それこそ丁寧な印象だったようでたいへんに喜ばれました。日本でも最近とんと見なくなりましたが、風呂敷はお勧めです。また、包むと自然にうやうやしく抱えてお渡しすることとなるので、そういう意味でも丁寧だなと思いました。着物もそうですが、必然が美しい所作を生む、ということは有る。

友人にお土産を渡しつつ、石川県で被災した話を少ししました。
グーグルマップを見せながら、能登半島の地形と私の郷里の位置、また、私の実家家屋の被災は物が倒れたり壁土が落ちて来る程度で済んだものの、一時期は石川県から外へ出る陸路が(下道以外)寸断されたような状態となっており、成田から飛行機乗って戻って来るのが大変だった旨などを話し込んでいたら・・まだ注文もしてなかった為、ウェイターさんが二度も来たので、一旦ストップ。😅たまにしか会わないと会った時に話すことが溜まってます。

今回の地震もそうですが、これ迄のコロナ禍4年間、私も友人も自らの「帰国」と「居住地」ということに関して考えさせられることが多く、また重いテーマ過ぎて、なかなかテキストチャットとかで気軽には語れない。
故郷で大きなことが有る度に、自分達はここ(海外)で何をしているのか、ここに居る意義は、そもそも本国の家族にとって自分が生きている意味は有るんだろうか?等と考えてしまいます。年老いてゆく親と、だんだんとそれに重なってゆく自分自身の老後のイメージ。自分たちの「本拠地」とはどこなのか、と。

<孟母三遷>
とは言え友人の方が少し年上なのと、友人自身の出自が少し複雑な為、友人と友人のご主人の両方ご家庭共、親の問題はある程度目処がついているようです。お金を十分に渡してあるから、とのこと。この辺り、日本と少し事情は違っていて、香港では専任のお手伝いさんを介護兼家事手伝い要員として雇うことができるため、老人ホームに入る人はそんなに多くなく、また国土も狭いので老人同士の友達付き合いや他の親戚縁者との交流も比較的頻繁かつ気軽に繋がることができ、明るい感じなのが良いですね。日本ではなかなかこうは行かない。

だから友人は「あとは子供たちを立派に育て上げるだけ」と最近はいつも言ってらっしゃる。基本的に、子供達さえ立派に巣立ってくれれば自分は抜け殻になっても構わないと。それが良いことなのか悪いことなのか一概には言えないと思うのですが、私にも深く共感させられるところがあります。

思えばそれぞれの子が低年齢留学に至った経緯も、この友人母子のケースとは酷似していて、香港の、あの教育環境(国全体が合わないわけでなく学園や個別の先生方が合わなかったのかも知れないから拡大解釈はしないようにしていますが)の中では、自分の子はダメになってしまう!という危機感に駆られて出て来ました。逃げたのだろうと言われればそれまでですが、もし海外へ出なかったとしたら国内で転校していたかも知れないし、引き続き学校や先生方とやり合ったり、婚家や行政に助けを求めてはけっきょく暖簾に腕押しの🥲戦いの日々を送っていたのだと思う。私の場合は、日本への育児帰国も何度か真剣に考えたものです。

こういった、各個人が必然性に駆られてとった行動の掛け合わせが、振り返って見た時に酷似していることが時々あるわけですが、あくまでもそれは結果であって、誰もが同じゴールを設定したからと言って、同じ過程を辿れば同じ結果が得られるのかという点については私は懐疑的です。だから今、私も香港人友人も「どうやって(英語が第一言語でない国から)お子さんをイギリスのボーディング校に入れたの?」「どうやったら高IQになる?」ということを人からよく聞かれるのだけど、実際に自分たちが歩んできた道を隠しはしないものの、それを話しても大した参考にはならないのではないか?という気持ちは常にあります。
私たちのやって来たことは計画ではなく必然で、藁をも掴むような感じがあった。行動の前に動機が有って仕方なくそうなって来たようなところがあるので、何か目的を達成する為に、やってもやらなくても良いことをあえて(=選択出来ること)やるといった、戦略的なものはなかったです。勿論、戦略派の方々にとっては狙ったところへ届くならばそれが幸せなのだろうし、人生を良いものとすべく試行錯誤が有るのならば、それはその人たちの生き方だから外野がとやかくいうことではないと思って、とにかく聞かれたことは全てお伝えしている次第。

ということで、いろいろとまた別の共通の友人母子たちの近況(引き続きイギリスへ移住して来る香港人は多く、大袈裟に言うと次から次へとやって来る)なども交えながら、お互いの育児人生を振り返っていたわけですが、私たちのやってることは謂わば「孟母三遷」だなという結論に達した。😆
「孟母」というのは文字通り「孟子の母親」なのですが、その音の響とも相まって(猛烈な母親みたいですよね)教育熱心な母親の意味でネタ的にも使われるみたいです。私たちが自らを「孟母って感じ?」と言うのは自嘲的に言ってるわけですが、元ネタの「孟母三遷」に関しては下記のとおりです。

最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。
この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出され、鄒城市には孟母三遷祠が建てられている。

日本語版Wikipedia「孟子」経歴の項より

なーんて、私たちの子が孟子みたいな大人物になってくれればそれはそれで素晴らしいことだけれども(なんと烏滸がましい!😆とここで友人と笑い合いましたが)、そんな大それた野望とは関係無く、どの親であってもやはり子が成長して行くにつれ「環境」というのは気になるものです。そういう気持ちに於いては皆同じ。

自分の教育に満足するとか、或いは納得が行くかどうかに関わらず、家ではその人なりに育児を頑張って来ていても、どうしても外の環境というものに影響されて育つ我が子に、悔しい思いをすることも多いですよね。
風邪ひとつひかさずに育てて来たのに、幼稚園へ上がった途端にロタだのノロだのコロナだのと毎月のようにもらって来るのと似てる。家ではニュースと教育計画動画しか見せてないのに、通園鞄におしり探偵とかクレヨンしんちゃんのシール貼られて来たりね。良くも悪くも、朱に交われば赤くなるの言葉どおりで。

悪い影響の場合、周囲の方に改善を求めるべき時も有れば、完全に周囲の方が間違ってることは分かり切ってるのだけれど聞き入れてもらえない、または周囲がゆっくり成長して行くのを待ってられない、ということはあります。それが社会勉強だ、ということだって出来るけれど、明らかに良くない環境、又はもっと他に相応しい(?)環境があった場合に、子を思う親としてどこまで我慢できるのか。
そんな意味で、私たちは香港から出て来ました。しかしそれが正しかったのかどうかの答えは無いと思うのです。

孟子のお母さんのケースでは、葬儀場が葬儀をするのは当たり前、市場に商人が居るのは当たり前のことなので自分たちの方が引っ越したわけですが、この時代には子に学を授けようという親も珍しかったのだろうから、母の信念で子の子の人生にレールを敷くべく、学問というものが有る環境を選んだ、というのはなかなかの「猛」母です。イギリスボーディングスクールへの進学も、要するに、進学校に入れたがる親、毛並みの良い子どもたちとばかり遊ばせたがる親、の延長線上に有るみたいな話で、早い話しが親の好みでしかない。だから私たちはこの表現を自嘲気味に使った次第。


ただ、これは日本でも言われ始めてる問題だけれど、海外で「良い教育」を受けさせるのは良いとして、そうやって育った子どもが将来、帰国するのか/帰国できるのか、というまた別の問題があるのですよね。

孟母の例えで言うならば、せっかく葬儀屋の近くに生まれながら葬儀のあげかたもろくに学ばせず、せっかく市場の近くに住みながら商売のやり方も学ばせず、母が唯一価値あるものと信じた学問の道に無理矢理入れられた孟子は、ある意味学問以外に何も無い生き方を強いられて来たわけです。今更市井には帰り辛かろう、という人間が出来上がってしまう。
私たち親の目で見て残念な環境であろうが、子の才能が勿体なかろうが、自国で育てば自国で育ったなりの人生が有っただろうところを、早いうちから海外へ出してしまって、海外育ちの人生をおくる子どもたち。帰国して馴染む最後のチャンスは大学進学ですが、帰国者受け入れ視点で見て、十分に豊かな大学の選択肢が有ると言えないのは、香港も日本も同じです。
かといって大学まで海外で出てしまうと、ヨソモノ感強いというか、既に居続けた者たちによって作り上げられた社会が有って入り込めない。普通の就職をするのは難しいのですよね。

その辺をどのようにリスクヘッジして行くか。
そのリスクヘッジがまた子の人生への関与となってしまうし、私たちの人生を自ら犠牲として行く作業になってるのかも知れないのだけれど。
答えは出ないのですが、めちゃくちゃしんみり話し込んでしまいました。


私は常々自分のことを「コウモリ」だと評してるのですが、どちらかと言えば香港寄りかなと思った。特に教育に対するスタンスは非常に中華的な動きとなっている為、香港人である夫からしてみれば珍しいことでもないから、あまり問題視されないのかも知れません。どちらが良いも無いし、環境や制度も違うから比べられないのですが。
最近また大きな変化も迎えていて、少しずつ書いて行けたらと思っています。

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このnote、文の収まりが悪いので何度も何度もこねくり回していて尚収まらず、結局このままアップロードします。
というのも昨日また同じ香港人ママ友さんから連絡が来て、今度は中国正月のお餅(ちょっと日本の和菓子の「牛皮」っぽいベタっとしたやつ)を用意したから渡したい〜とのことで、また会いに行くことになったから。
また今日は今日で話すのだろうなと思ったら、早くアップロードしとかないと😅書きたいことのポイントが増え過ぎて書けなくなりそうなので。

では行ってきます〜