クラブ化粧品「陽級」「堂級」「特定品」?
以前投稿した記事で、クラブ化粧品には販売ルートが3本(「陽級」「堂級」「特定品」)存在していたことについて触れました。
しかし、化粧品カタログと無理矢理ひとまとめにしたせいで、内容が錯綜してしいたため記事を分けることにしました。
こちらの記事は、『堂級クラブ化粧品カタログ』のみにまとめ直しました。
♣堂級?陽級?特定品?
クラブ化粧品を収集していると、「陽級」「堂級」「特定品」という文言を必ず目にします。東京小間物商報のクラブ化粧品の広告でも「陽級第七分科商品」等という記載が見られ、これは何だろう?と以前から疑問でした。
全てを理解するのには難解そうな気がしたので、取りあえず手元にある資料で調べてみることにしました。使用したのは、『クラブコスメチックス80年史』『百花繚乱クラブコスメチックス百年史』です。
まず、「堂級」「陽級」「特定品」とは何か簡潔に述べておくことにします。ここでは省略して記載していますが、それぞれの名称は「クラブ堂級化粧品」「クラブ陽級化粧品」「共栄クラブ会特定化粧品」です。
この3つは、大正14年以降にできた新しい3本の販売ルートのことです。
ちなみに「分科」とは「分科合成法」のことで、「陽級」における運用法です。平易にいうと、商品ごとに分けたカテゴリーといえるでしょうか。
♧クラブ陽級化粧品
大正15年「陽級販売制度」が制定され、これまでの化粧品は「クラブ陽級化粧品」と名付けられました。中山太陽堂から陽を取り「クラブ陽級化粧品」とされたのでしょうか。「堂級」よりも派手な製品が多かったようで、図案も他2ルートより華やかで可愛い気がします。
昭和2年に、「陽級販売制度」の合理的な運用を明確にした「分科合成法」が制定されます。この分科合成法の規定は、昭和に入ってから何度か改変されていますが、概ね下記のような内容です。
この制度により業界全体の発展に貢献し、クラブの全国販売網は次第に結束を固めていきます。
また、『此の人を見よ:中山太一を語る』でもこの組織化について触れられています。
クラブ陽級化粧品関連の広告
広告の中に分科の記載が確認できます。
♧クラブ堂級化粧品
堂級クラブ化粧品の名称は、堂島ビルヂング(堂ビル)が由来であることは確かです。堂島ビルヂングは大正12年7月に開館し、9階という大阪で最もモダンで高層なビルであったと、堂島ビルヂング100年史にその歴史が記されています。この最尖端時代の象徴であった堂島ビルヂングから名付けたのも納得です。
中山太陽堂は、堂ビルの5階にクラブ美粧院を開店。
翌大正13年、堂ビル5階に中山太陽堂小売部を設け、「クラブ本店直営の販売店 最も新しい化粧品販売店」として販売を開始します。化粧品は「堂級」と「特定品」を扱い、更にプラトン社の商品も置かれていました。なので、ここへ行けば化粧品と文具・雑誌をまとめて購入できたというわけです。
また、「堂級」は堂ビルのみの専売品で、容器やラベルの図案は一般のクラブ化粧品と区別された留型品です。更に、この専売品をきっかけに定価維持の制度が発足され販売ルートが整備されていきます。大阪と東京は直販でしたが、一つの県に一つの代理店しかおかない権利品として販売されました。
クラブ堂級化粧品関連の広告
♧共栄クラブ会特定品
昭和6年4月、全国小売店の協力機関である「共栄クラブ会」が、会専売製品として「クラブ特定品」の販売を開始。「堂級」と同じく留型品でした。
小売店の集まりが本格的な販売組織になった経緯は、『クラブコスメチックス百年史』の解説が分かりやすいです。
クラブ特定品関連の広告
♧御進物詰合箱
「陽級」「堂級」「特定品」によって化粧品の図案が異なるため、中身の華やかさも印象も変わって見えるのが新鮮な気がします。
クラブ陽級化粧品進物函
昭和5年の『東京小間物化粧品商報』掲載の広告です。やはり陽級は華やかで、化粧を施す気持ちを高揚させてくれる図案ばかりです。
ちなみにモデルが手にしている小冊子については、こちらの記事で取り上げています。この広告を見ていると、小冊子は進物函の付属品だったのかもしれません。
陽級カテイ・クラブ石鹸特別景
昭和5年に新登場した石鹸用の進物用箱。「ビルヂング形手提げ組立紙箱」です。カテイ・クラブ石鹸三個入の箱が四箱入っています。ビルヂングに人物のイラストがモダンです。しかし熨斗が付いているので面白い雰囲気になっている気がします。
クラブ堂級化粧品進物函
偶然購入した『高島屋家庭寶典』の年末・年始贈答用ページに、クラブ化粧品(詰合せ函)が載っていました。値段は、1円(約2,000円)〜10円(約20,000円)まで取り扱われていたようです。
『モダン図案集 明治・大正・昭和のコスメチックデザイン』では、総天然色の進物函を見ることができます。
所有の小冊子や資料を確認しても、共栄クラブ会特定品専用の進物函は見つかりませんでした。専用に用意されることはなかったのでしょうか。
♣販売ルート設立の背景
では、なぜ3本の販売ルートが創られたのか、その背景を見ていきます。
♧無秩序な乱売状態
明治末期になると機械の導入により、商品の大量生産が可能になりました。その影響から商品の低価格化が進み、小売店同士が価格競争を起こす事態に陥ります。その結果、正規価格での販売が困難な状態となってしまい、徐々に乱売が問題視され始めました。
中山太陽堂は乱売対策として、取締の広告を化粧品商報に掲載したり、小売店に新しい取引法を提示するといった対抗を試みましたが、それでも乱売の流れを止めることは難しかったようです。
♧乱売解決を目指す
「大洋会」設立
大正11年、乱売解決を目的とした「第一回全国代理店連合協議会」が開催されます。各地区ごとに代理店の協議機関が設けられ、この組織は「大洋会」と命名されました。協議機関の決議事項の内容は、『クラブコスメチックス80年史』に記載されています。
一致団結し、国産品を守るべく「共存共栄」を謳った内容になっています。また、乱売に関して以下のことが代理店同士の間で確認されました。
各地に大洋会の設置を広め、密に連携を取り合うことを目的としています。
共栄クラブ会設立
大正14年、乱売防止を小売店にも浸透させるために「大大阪共栄クラブ会」が設立されます。中山太陽堂傘下の小売店が加盟しました。大洋会と同様に、共存共栄や乱売防止についての協議が重ねられたようです。共栄クラブ会員には、優遇措置を取り関係強化が図られました。
こうして、「堂級」系統と「特定品」系統という2本立ての販売組織を確立し、「陽級」の販売網を補強しながら、乱売対策が行われていきました。
♣中山太陽堂の宣言
中山太陽堂が商報に掲載した宣言です。大正15年1月より、毎年この宣言の掲載していました。活動内容、大正14年に制度化された乱売防止に関する内容が記述されています。
こちらは昭和15年の宣言です。時代背景を感じる内容も含まれていますが、活動内容を主に記載しています。大正15年と同じく乱売防止についても触れており、中山太陽堂の方針が示されています。
♣終わり
「陽級」「堂級」「特定品」について、全てを網羅できたわけではありませんが、どういった経緯で設立されたかを知ることが出来たと思います。
3本の販売ルートの根本は、乱売防止を目的に、本店・代理店・小売店で協力して連携強化を図る、ということだったと理解できました。また、この先進的な改革は、化粧品業界へ貢献した形になったと記されており、この点からも、中山太陽堂の卓抜に満ちた着想を伺い知ることができます。