映画 聖地には蜘蛛が巣を張る

 イラン 聖地マシュハドで起きた連続娼婦殺人事件を軸に
ストーリーは進む。
実際に起きた事件をモチーフに、監督・脚本をアリ・アッバシが
務めた作品。
イランでの撮影は認められず、ヨロダンのアンマンで撮影。
入賞:カンヌ国際映画祭 女優賞
   ストックホルム国際映画祭 ブロンズ・ホース賞

(以下、ネタバレを含みます。)
「街を浄化する」という理由で、娼婦が殺されていく。
娼婦のヒジャブ(頭に巻いたスカーフ)をずり落とし、
結び目を思いっきり男の力で息が止まるまで締め続ける。
後はバイクで運んで遺棄。
一向に犯人の手がかりが見つからないというか、同じ手口で同じ場所に死体を遺棄しているにも関わらず、警察が本気で捜査しようとしていない。

街は震撼する一方、敬虔な宗教観が強い市民たちは
この「蜘蛛殺し」を英雄としてみるようになっていた。
 映画のごく最初の場面で、犯人が誰かが判明している。
バイクに乗って、赤い石のついた指輪をした男。
サイードは、家ではごく普通の父親で、子どもたちと遊んだり、近所づきあいをし、妻を大切にしている。
 
 ジャーナリストのラヒミが真実を突き止めるために降り立った。
彼女は教養があるので、国内での扱いの差に異議を唱え向かっていく。
警察のやる気の無さにいら立ち、偶然出会った娼婦が犠牲になった姿を
目撃し、自分が囮になって決死の覚悟で殺しが行われようとする現場に
買われたふりをして潜入する。部屋に入ると、ラヒミは護身用のナイフと
証拠のテープレコーダーをトイレに行ったふりをして用意する。
売春という行為自体をしたことが無いことと恐怖でラヒミは振舞い方が
不自然。サイードはそれに気づくが、まさか反撃するとも知らずに
いつも通りの手順で締めにかかる。
 大声をあげて反撃するラヒミ。逃げても逃げても仕留めようとするサイード。
 翌朝通報を受け、サイードは連行されていく。

 拘留されている外では、街を浄化する英雄を開放するように
デモが起こっている。
被害者家族には、お金を渡すので若いするようにという圧力がかかっている。
そう、娼婦までするのは貧しいから。お金を取る可能性が高いことがわかっている。被害者家族の一人は、あんな娘は死んでくれてよかった。残された孫が娼婦に身を落とさなくて済むように、賠償金は学費に充てたいと。
 

 拘置されているサイードは余裕の表情。世論も自分に味方しているし、
何よりも神の言葉に従って浄化活動を行った自分に罰が下るわけがないと
たかをくくっている。 

 判決は有罪。むち打ち100回の後に、絞首刑。有罪が確定した後もなお
サイードを逃亡させる手はず友人とその懇意の中の裁判官とでとられて、むち打ち100回はやったふりをして実行されず。
とうとう、刑の執行が行われる部屋へ。ここから裏庭を通って逃亡の手配が
取られていたが、何かの手違いか最初からそれはサイードは絞首台へ。
刑執行。
 サイード亡き後、サイードの周りの人間にとっては彼が英雄として扱われるようになった。そして残された長男は、父親の後をついて街を浄化することを周りに勧められている。息子も父を誇らしく思い、娘も父の行動を正しいと思っている。
マシュハドから無事帰宅する長距離バスの中、ラヒミがこの2人の子どもたちのインタビューした時の動画を観ている。終わり

 ここからは、解釈と感想。
まず背景になっているイランという国。

イスラム教シーア派が国教になっており、女性は観光客含め
飛行機で入国する際は領空から髪の毛を隠すことが決められている。
貞操がとっても重視され、男性の視線から女性を守っている。
こんなシンプルな説明で足りないが、今回はここまで。
そしてマシュハドというのは、イラン第2の都市で巡礼地でもある。
家族も貞操を破った女性に対しては、家族愛では助けられない。
貞操を守る女性にとっても、娼婦をしている女性というのは
蔑視の対象である。。これは程度の差はあるが、
他の多くの国と共通の認識。
貞操を守れない女は殺されて当然。街の浄化をしたサイードは英雄。
表立ってこんなことが言えるのは、そんな蔑視の意識から。
妻も最後まで、夫の身の潔白を訴える。
しかし、民主主義、人権利意識がしっかりしている国は
娼婦が殺されたなら、司法の力で犯人はしっかり裁かれる。
娼婦であろうと人は殺してはいけないというのが基本。

あれ?でもちょっと待って。大きな声でも言えないけれど
我々平和な国の日本人も、黒い噂のある人が殺されたとしたら
「因果応報だよ」とか「悪いことするから殺される」と
心の中で思っていないだろうか。
この時点で、犯人の罪のことはそっちのけである。
また、これはまた大きな声でも言えないけれど、安倍首相が殺害されて
山上氏が一部で英雄扱いされているのと似ている。
日本ではあまり大きな声でこれをいう人は少ないが、
人間の本音のホンネの部分をこの作品はえぐりだしているような気がする。
 
 もう一つ、ストーリーにある背景。
サイードは退役軍人である。イランイラク戦争を生き抜いた英雄。
つらく長い戦争であったが、ここで戦ったことは多くのイラン人男性の誇りになっている。この戦争で生き残って、イラン革命防衛隊の上層部になっている人もいる。
サイードも同じく自分を誇りに思っていて、英雄であったころの自分が忘れられない。戦争で死んでいれば、殉教者として一生英雄として眠れたとも考えてしまう。
しかし現実は建設会社で肉体労働をする一市民として暮らしている。「自分はそんなことをしていて良い人間ではない。英雄として
神のために行動したい」という狂気が芽生える。
プライドが傷つけられた出来事があった夜、娼婦を一人街から消すことで
自分の「英雄」としての行動で落ち着かせる。
そんなサイードの狂気は死刑台に立つ直前まで続く。神の心に従った自分は
神が助けてくれるに違いないと。
首に縄をかけられたところから、人間としてのサイードが戻ってきて恐怖におののく。
 誰もが、子どもの頃は夢を持ち、何者かになってやるという気持ちを持っている人間が多いが、ほとんどの人間は、「人生こんなもの」として
ささやかな幸せを糧に生きている。
自分の考える自分と世間で評価される自分のギャップが激しぎる時、
人間は狂気じみた行動に出てしまうのだろう。
この映画まで極端ではないが、オンライン上ではこんな心理の狂気じみた行動が、日々行われている。
 
 最後に、、、サイードの友人とその友人の裁判官が逃亡させる手配をしていると話してサイードを安心させる。しかし逃亡の手配は取られなかった。
これに対して、多くの人が「なぜ??」と思い理由が知りたいと考えているだろう。著者もどういう意図なのかはわからないが、
著者なりの推測すると、、、。
 イラン人は、その場しのぎでうそをつくことがあるというのが前提で、、、。こういうイラン人もいるので3つあげてみた。
イラン人全員がこういう人間ではないのであしからず。。。

①友人たちもサイードにその場だけでも安心させようと思って、できもしないうそをついたの。
②友人たちもサイードの判決は神の意志に背く行為と考えていて
しかし刑は覆すことができず、サイードが神の国に召された後に
助けられなかった自分たちのことを悪く神に行ってほしくない。
③裁判官がサイードの友人のお願いを断れず、逃亡の手配の嘘をついた。
 友人:逃亡できなかったじゃないか!
 裁判官:手配したはずなんだけど、、、。
     ごめんね、でももう仕方ないよね。。。
というやり取りがされている。

 最後はこの映画、日本ではやはり未知の国の話で人気がないのか
そうそう打ち切りになりそうである。
興味の持った人は、どこかの動画配信サービスででもぜひ観てほしい。
見ごたえ抜群である。



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