恣意 スポーツとオリンピックの嘘と新興貴族の台頭

スポーツは感動をくれる
スポーツは希望をくれる
オリンピックは感動をくれる
オリンピックは希望をくれる
オリンピックは特別だ

 常套句として使われる言葉である。
 スポーツを競技名としての高校野球・水泳・ラグビー・サッカーに変えても良い。
 オリンピックを世界陸上に変えても良い。

 これを補強する言葉が、
「今まで努力してきたアスリートたち」である。
 高校野球では、
「小さいころから一生懸命頑張ってきた」である。

 コロナ禍の最中でなければ美談だろう。

 スポーツ観戦での人流が無ければ感染することのなかった人は必ず存在する。
 オリンピックでの人流が無ければ感染することの無かった人は必ず存在する。

 アスリートには何の罪もない?
 感染した人には何の罪もない?

 しかし、人流が増えると感染者が増加するのは当然のことである。

 一見関係が無いが結果として感染者を増やす行為は、未必の故意である。
 人流を増やせば感染者が増えることを知りながら、人流を増やす行為をしているから、未必の故意である。

 感染者だけではない。
 重症者、そして死亡者も当然増加する。

 つまり、人流を増やす要因となったものは、結果として殺人に類する結果を招いている。

 本当に希望を、感動をくれるのだろうか?
 人流が増えなければ長寿を全うしたはずの人たちとその親族には、絶望と苦悩を与えている。
 特別なものだろうか?
 人命よりも大事な特別なものだろうか?

 感染者は存在するが、その増加を招く行動はコロナ禍の今は「悪である」といえる。
 なぜなら、繰り返しになるが、長寿を全うしたはずの人生を奪ってしまうという、感染者の増加を招いているからである。

 常套句の「スポーツは希望・感動」、「オリンピックは特別」は、今は嘘なのである。

新興貴族の台頭

 アスリートやタレントの実力者が注目を浴び、尊敬されることは納得できる。
 並以上の収入を得、社会的影響力を持つという面では、現代の貴族といえよう。
 封建時代の貴族でも、成功を収めたことから爵位を得た例は多いから、現代のアスリートやタレントはまさに貴族といえる。

 また、評論家やジャーナリストとして成功を収めた者たちもこの部類に入るであろう。

 そして、封建時代の貴族が自分たちの利益を優先したように、現代の新興貴族たちも一度地位を得ると、利益優先で動くようになる。

 曰く「スポーツは感動だ」「今までの彼らの努力」「特別な行事だ」と言って世間の注目を集め、結果として自分たちの収入を増やそうと必死になる。
 「この試合は見逃せない」「これは天下分け目の」と言って興奮をあおり、注目を集め、スポンサーを見つけ出して収入を上げる。

 悪いことではないだろう。
 誰もが自分の収入を上げる欲求を持つのは当然だから。
 しかし、美談を振りかざしてそれを武器にし、興奮や注目を集めようとする常套手段には大いに疑問を感じる。
 美談を聞かされて裏を見ようとはしない者たちから、結果として自分の収入を得ようとする。
 収入ではなくても、自分の価値観を社会の常識に塗り替えて、他人に押し付ける。

 封建時代の貴族と同じく、自分たちの行為が不当なものであることに気づかない。
 自分の価値観を押し付けることに疑問を持たない。

 新興の貴族たちも、自己中の過去の貴族たちと同じである。

 だからどうした

 疑問を感じること無く「〇〇が言っているから正しい」として行動していることの事例を述べてみた。
 「社会の常識」「権威が言っているから正しい」「人気者の言葉だから」という行動から、そろそろ抜け出しても良いのではないだろうか。

bye

ありがとー