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「あと5分」のしあわせ

~ 先生の思い出 ~


もうすぐ大好きだった先生の命日がやってくる。
早いもので、あれからもう何年も経ってしまった。
それだけ私も歳を重ねているわけで、私は何か変わっただろうか、成長したのだろうか
なんて思うと、ちょっとドツボにはまっちゃいそうだ。

この際 私のことは棚にあげておいて。。
今年はお墓参りに行けそうにないので、ここで先生の思い出を綴って偲びたいと思う。


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ここで“先生”と呼ぶのは、私が秘書としてお仕えしていた政治評論家の先生のこと。

とにかく私は先生のことが大好きだった。
とてつもなく心が広く、とてもあたたかく、思料深く、オシャレでグルメでいつもユーモアにあふれている先生だった。

そんな先生には、時には厳しくお叱りを受けることもあった。
「ばっかもーん!」とはじめて言われたときには、そんな言葉を波平さん以外に使う人がいたんだ、とびっくりした。
でもその言葉を言われるときの私は 本当にバカモンだったし、何より先生は、あの波平さん以上に いつもオチャメであたたかかったから、私は「ばっかもーん」のお声をいつまでも引きずることはなかった。
秘書として、あるいは社会人として 正すべきことや、より向上するための教えを いつもスパッと与えてくださったことを、ありがたく思う。

先生には日々、たくさんのことを教えて頂いた。
仕事に関することはもちろん、古き良き日本の文化のこと、おいしいお店のこと、それから先生のヒミツまで、ジャンルを超えてたくさんのことを。

おしゃべりも、たくさんした。
事務所の中で、地方講演に向かう新幹線の中で、すてきなイタリアンのお店で。私は昨日のデートの報告までした。
おしゃべりの中で、先生独自の哲学があらわれる瞬間が、私はとくに好きだった。

先生の言葉の中には、私の人生の糧になることがたくさんあった。
今でも、何かあるとその言葉を思い出し、優しい気持ちになったり楽しい気分になったり、地面から顔を上げて前を向こうと思うこともある。


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私が先生の個人事務所に就職をしたとき、先生は齢78。
一番お忙しい時期は過ぎていたかもしれないけれど、それでもバリバリに活躍されていた。
私は若かったから、祖父と孫みたいな年齢差。だから恥ずかしげもなく「大好き」とか言えるのかもしれない。

事務所の社長は奥さまで、秘書は4〜5人(メイン秘書は私を含めて2人)という、「職場」としては とてもこじんまりした場所だった。
でも、私はちいさな事務所にいながらも、広い広い世界を泳ぐような感覚で毎日を過ごしていた。
先生は仕事の性質上、政財界トップの方々と日々コンタクトをとられていたし、プライベートでも スポーツ関係の方、デザイナー、芸能人など交友範囲がとても広かったから。
奥さまも秘書たちもみんな陽気で、いつも笑い声あふれる空間だった。

その個人事務所で得られた具体的な学びやエピソードを書いてみようかと思ったのだけれど、なんだか選びきれない。
思い出はいくらでも、どんどん、ドライアイスのように溢れてくるのだ。
溢れすぎちゃうので、お話は先生の事務所を退職するところまで飛ばそうと思う。


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私は先生のもとで ずっとずっと働いていたかっだのだけれど、あるとき事情があって断腸の思いで先生の事務所を退職した。

自分が決めたことなのに、後ろ髪をひかれまくった私。
尊敬や信頼の念と、深い情を抱いたままの退職だったので、その退職をもってお別れするなんてことは、できるはずもない。だから私はその後も先生のもとへ通い続けた。
先生も私を受け入れてくださり、また時に頼ってくださった。

退職後も、先生が主催して毎月開催される「内外問題研究会」の日には、新しい職場を休んで その研究会の業務をした。

毎年クリスマスやお盆には、先輩秘書と一緒にお宅にお邪魔して、時には泊めて頂いた。
合宿みたいでとても楽しかった。

日曜日にご自宅へ伺い口述筆記をすることも、たびたびあった。
先生は、私が出会ってから深刻な眼病を患われ、どんどん目が見えなくなっていた。
退職した頃にはほとんど盲目に近い状態だったのだ。
加えてその後、脳梗塞で倒れてしまい、右半身不随になってしまわれた。
先生の命ともいうべき原稿を、先生自らの手で書くことができなくなっていたから、口述筆記はとても大切な役割だったと思う。(と、私は役割に価値を見出していた。)
私は先生の口述筆記をするのが とても好きだったし、日曜日をその時間に費やすことは苦にはならなかった。


そうやって先生のところに伺い、何かしらのお手伝いをして、おしゃべりをして。
時間がたって私が「そろそろ失礼します。」と帰ろうとすると、決まって先生は、


あと5分、いたらどうだ?


とおっしゃった。

私はその言葉がとっても嬉しかった。
先生が その日の別れを惜しんでくださっていることがストレートに伝わったから。

「あと5分いたらどうだ」と言われるたびに、私は幸せな気持ちに包まれた。

実際には5分ではとどまらず、30分くらいはおしゃべりすることになるのだけれど、それも楽しかった。
ある時は外で友人と夕食の予約をしていたのだけれど、「30分遅らせるように、今ここで電話したら良いじゃないか」と、これまだワガママな提案をしてくれたこともあったっけ。
なんだか嬉しくてすぐに約束の時間を変更しちゃったなあ。


そうして本当に帰る時には、いつも先生から握手を求められた。
握手をするときは いつも無言だったけれど、いろんな思いが伝わってきて、私は涙が溢れそうになっていた。

目が見えなくても、半分体が動かなくても、どうしていつも先生はそんなに穏やかなのだろう。どうしていつもユーモアにあふれているのだろう。どうして他人にそんなに優しくできるのだろう。
またすぐにお邪魔します、また必ずお目にかかります、と心で言いながら、尊敬と感謝の気持ちを込めて手を握り返す私だった。



あるとき、先生のご体調が厳しくなってくると、「あと5分いたらどうだ?」が、
3分いたらどうだ?
に変わった。

3分になっちゃったのは切なかったけれど、それでも私は嬉しかった。




その後、先生はいよいよ入院生活に。
ある時から、病室でかけられる言葉は
あと1分いたらどうだ?
に変わった。

お話しするのもお辛そうだったから、1分はその時の先生の精一杯だったのだと思う。




8月のある日。

先生の足元に座る私に、「もう少し近くに来たらどうなんだ」と弱々しいお声で先生はおっしゃった。その時先生は90歳になられていたのだから、お声が細くなっても不思議ではないけれど。
私はお顔の近くに椅子を移動し、そして先生がお好きな氷を小さくくだいて口の中に含んで差し上げた。
「氷は儚いなあ」と、先生はつぶやいた。
その時、儚いだなんてことを認めなくなくて、あっけらかんと「冷たくて気持ちが良いですよね?」と返した私。
先生は「そうだな、気持ち良いな。美味しいよ。」と、しみじみおっしゃった。

その日、ゆっくりゆっくり、言葉を噛みしめるようにおしゃべりをしたあと
「そろそろ失礼します。」という私を、
先生は引き止めなかった。


そのかわり、最後の握手が とてもとても長かった。
やせ細った手指であたたかく私の手を握りながら、初めて言葉をくださった。

大切過ぎて書けないけれど、遺言だった。



それから一週間後に先生は天国へ旅立たれた。


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葬儀は、先生の秘書としての、私の最後の大仕事だった。
大仕事だから、心をしっかり持って、泣かないように、遺族席に座るご家族から託された 参列者対応リーダー の役割を担おうとしたけれど、どうしても気持ちが持って行かれてしまいそうだった。
何人もの僧侶が唱える読経はどこまでも響き渡るようだったし、当時 就任直後の新総理が読み上げられた「先生は迷った時の羅針盤でした」と始まる弔辞には、胸を打たれてしまった。今後の政権運営への覚悟や誓いの言葉のような弔事だった。
先生は、どれだけこの言葉を聞きたかっただろう。先生、聞こえますか、先生、すごいです、って思ったら、涙腺のたかが外れちゃった。


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みんなから愛された先生。
ご家族からも、秘書たちからも、ご友人からも、本当にみんなから。
先生のことを悪く言う人なんて、1人もいなかった。

そしてずっと言い続けていたことば。「生涯現役」を貫かれた先生。
目が見えなくなっても見えるふりをして講演活動などを続け、
さらに半身不随になってからも寄稿やラジオのレギュラー出演は続けられた。
亡くなる数日前に出演されたラジオで語られたのは、日本の教育の在り方についてだった。
病室で収録されたそのお声は、絞り出すようにかすれていたけれど、とても力強かった。

生き様を十分に見せて頂いた。




後ろ髪をひかれながら先生のもとを退職した私は、勤務先は変えたけれど、最期まで「先生の秘書」でいられたことを、誇りに思う。
私が誇りに思えることなんて、すっごく希少だけれど、そう思わせてくださった先生には感謝しかない。


先生は今、コロナ禍で過ごす私たちを見て、何とおっしゃっているのだろう。
超アナログの先生には信じられないような変革が起きているから、もともとまあるい瞳をさらにまるくして、パチクリしながらご覧になっているかもしれないな。
いえいえ、いつもすべてを達観していた先生だから、冷静にとらえて「みんな ふんばれよ」っておっしゃっているのかもしれない。


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先生から頂いた言葉の数々は、私の心にしっかりと宿っている。
先生のもとで得られた経験は、私の中に根を張って生き続けている。

姿はなくなっても言葉は生きるのだと

人生はどれだけのことを得られたかよりも、どれだけのことを人に与えたかなのだと

いまなお、先生は天国から教えてくださっているようです。




大好きな先生を偲んで 
2020年8月。


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先生のことは、一度 綴ってみたいと思っていました。
長くなってしまいましたが、最後までお読みくださいまして、どうもありがとうございました!



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