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2024.4.9 忘却への恐れがある、話

忘れることをいつだって恐れている私がいる。
小学生のとき、下校中に友達と道端で座り込みそうになるくらい笑ったことは覚えているのに、何に対してそんなに笑っていたのか覚えていないし、綺麗なものも可愛いものもたくさん見たはずだし、友達や先生や家族といろんな会話をしたはずなのに、細かに思い出すことがどうしてもできない。
中学生はあまり良い思い出がなかったのもあって、記憶の中にほとんどない。私の脳が自動的に中学生の記憶を消してしまったのかもしれない。高校生は吹奏楽を本気でやりたくて高校を選んだのもあってかなり楽しかったのは覚えているし、顧問の先生に怒られたり、友達や先輩後輩と練習したり、授業の後に焼肉に行ったり、大会の朝が早かったり、記憶がまだ新しいから覚えていることは多いけど、それでもあの日の会話をしっかり覚えていることはない。思い出せない。

忘れることは幸せなのだろうか。

無理に悲しんだり嫌なことを思い出して苦しんだり、するくらいなら忘れてしまった方が幸せなのかもしれない、という文章を先日目にした。
それもそうなのかもしれない。過ぎた日々を惜しむくらいなら過去を忘れた方が精神的に良いこともあるのかもしれない。人間の構造上嫌だったことの方が記憶に残ると聞いたことがある。それを知ったとき、嫌な構造だなと思った。むしろ嫌だったことの方が忘れてしまいたいなと思う。

人間の身体が死んでしまったとき、きっと全てを忘れてしまうのではないかと思っている。

私はそれを知ったとき、死ぬことが怖いと思うようになった。

死んで全てを忘れてしまうことは過去の自分を捨ててしまうことのように感じてしまった。中学生のときの良くない思い出も、あの日々を何とか生き抜いた私だから、消したくはないなと思ってしまった。
友達と話した大したことない会話の全てが尊いと思った。何でもない日常が、生活が、愛おしいと思った。忘れたくない。
こう書いている間にも私の周りの時間は過ぎて、きっと昨日思ったことも1週間も経てば忘れてしまっていて、あの日の会話も景色も、だんだんぼやけていくのだなと思う。それが寂しくてたまらない。忘れないようにどんどん文章を書いているけれど、それでもきっと忘れていくのだと思う。
忘れたくないことがたくさんあるのはきっと幸せで、そう思えている今の私もきっと幸せなのだろう。

幸せだからこうも恐怖を感じているのだろうか。それなら幸せじゃない方がいいのだろうか。
それでもきっと、周りの人たちが笑えば私は幸せになってしまうし、今の生活が好きだ。

生活を愛している今を手放したくないから、きっと私はこれからも忘れることに恐れながら生活をするのだと思う。
忘れたくないな、日々を

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