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日記 2023.2.3 小夜

小さい頃、まだ小学校に上がる前だったか、一度だけ、ひとつも眠らずに朝を迎えたことがある。
まだ部屋が両親と別れていなくて、所謂川の字で眠っていた頃だった。

布団に入って、寝転んだ状態で、ぼんやりとしながら窓から見える空を見ていた。隣の家の灯りが消えて、前の家の灯りも消えて、少しずつ星が鮮明に見えるような気がした。
暗くて黒い、空に細かな光が浮かんでいて、その細かな光がゆっくりと動いていくように思えた。「星も動くんだな」と幼いながらに頭の片隅で思っていたのを、何故だか物凄く鮮明に覚えている。星座はオリオン座しか知らない子供だったから、ただ光がぽつぽつと並んでいるのを見上げていた。ぼーっとしていたら、いつの間にか星が動いているのに気づいた。星が動いているのを、生まれて初めて実感した。絵本で読む星は、しゃらしゃらと流れていくようだったけど、実際に見た星は、ただ見ているだけじゃ気づかないような速さで、それでも確実にじっとりと動いていた。

夜は長いと思っていたのに、その日の夜は驚くほどに短くて、本を読むわけでも、もちろん携帯を触るわけでもなく、ただ空を見ていただけなのに気づけば空が少しずつ白く明るくなっていた。

その時初めて、夜が朝になる瞬間を目の当たりにした。

いつもは眠って、目覚めたら朝になっているけれど、その日は少しずつ朝になった。不思議だった。

空に浮かぶ月は、いつまでくっきりと見えるんだろうと思った。出来るだけ長く見えていてほしいと思って、ずっと目で追っていたけれど、少しずつ月は白く儚く薄くなっていって、いつの間にか消えてしまった。目を離さないように気を付けていたはずなのに、いつのまにか消えていた。

母にも父にも、夜一度も眠っていないことを言わなかった。まるで眠っていたかのように「おはよう」と言った。不思議と、眠いとは思わなかった。あの夜は、幼い私にとって、秘密の時間だったのだと思う。もしかしたら、神様がくれた特別な日だったのかもしれない。

月が残る明け方のことを、朝月夜というらしい。
まだその言葉を知らない私は、朝月夜を目で直に捉えていた。その記憶を、きっとこの先も不意に思い出すだろうなと、なぜだか思った。料理をしたり、本を読もうと本棚の前に立ったり、玄関から外に出たり、そんな生活の中で不意に、あの夜を思い出すことがあると信じたい気持ちになった。

死にたくないな、と思う。出来ることならずっと生きていたい。死んで記憶がなくなるのが嫌だな、とずっと思っている。幼い頃の記憶が少しずつ少しずつ薄まって透明になっていくのを実感する度に、なんとも言えない怖さに襲われる気がする。そんな私の、幼い頃の鮮明な記憶があの夜だった。星の小さな光や、少しずつ白くなる空が記憶の中で色を持っていた。色を持っているうちにそのことを書きたいと思った。せめてあの夜は、私が老いていっても鮮明に覚えておきたい。

あの夜を体験した頃の私は、袖が膨らんだパジャマが嬉しかったり、お弁当箱に描かれた絵に目を輝かせたり、絵本の世界に没頭していたり、そんな毎日だったな、!懐かしい
ちゃんと忘れずに大人になりたいと思った。そういうことを覚えている大人は、分からないけれどきっと、永く生きていられるような気がする。

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