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日記 2023.1.16「垣間見る」こと

「垣間見る」という日本語がある
辞書によれば『すきまからこっそり覗く。ちらと見る。』という意味
中高の古文の授業では、男性がお姫様の姿を垣根の隙間や窓の隙間からこっそり覗き見る場面があったりする。あれも「垣間見る」

私はこの「垣間見る」という感覚が好きだ。
別に友達や知り合いの部屋をこっそり覗きたいわけではない。もちろんそんなことをするわけにはいかないし、別にしたいとも思っていない。そうではなくて、例えば会話の中の言葉だったり、その人の服装だったり、或いは電車の窓越しに見える景色やバスの後ろの席から聞こえてくる会話……などからその人の生き方、或いは「人生」を垣間見る感覚が何故だか好きなのである。

話の流れで不意に口から溢れた「〇〇というアーティストが好き」という言葉だけで、その人の価値観や人生が少し垣間見える気がするし、電車の窓から小さな公園が見えて、同時にそこで遊んでいる名前も知らない親子も目に入り、全く知らないこの親子はこうやって休日を過ごす人生を選ぶのか、と思う。微笑ましい。すれ違い様に聞こえた誰かと誰かの会話で、「〇〇でさあ〜!最悪でしょーー?!」なんて聞こえてきて、「ああこの人たちは〇〇ということが嫌だと感じるんだな」と頭の片隅で思う。これも一種の人生。

人生って何?という問いを投げ掛ければもちろん、その問いを投げかけられた側は自分なりの「人生」について話してくれるだろう。それはもしかしたらとても的を得た回答かもしれない。それを聞いて私はとても納得するかもしれない。「確かにあなたの人生はそうだね」なんて口にするかもしれない。
けれど、「垣間見る」瞬間は、その人はおそらく「私の人生はこうだ」と意識して言葉を発しているわけでも、動いているわけでも、存在しているわけでもないと思う。特に意識していない、のに「人生」が見える。そこに何とも言えない甘美さ…と言えば良いのだろうか、を感じるのである。

そういう性質を持った人間だからか、エッセイなんかは割と好きだ。「人生観」などと大きく掲げたタイトルよりも、「この日の夕ご飯が美味しくて、次の日は犬の散歩に行った」と乱雑にいろんな話をしてくれるものの方が好き。SNSはTwitterがいちばん好きで、何気ない呟きを読むのが好き。不意に心に浮かんだことなんかがそのまま呟いてあると「その人」を見ることが出来た気がして嬉しくなる。にばんめにInstagramが好き。どの写真を選ぶか、その写真に何という言葉を添えるか、これも「その人」を見ることが出来るから好きだ。あんまり投稿しない人もいるし、ストーリーだけ上げて投稿欄は0の人もいる。とても文章が長い人(わたし)もいれば、絵文字だけをひとつ、添える人もいる。この人のこの投稿、文章まで込みで好きだなぁと本人には伝えずとも密かに思ったりしている。

実家に、小学生の書いた詩や作文、俳句などが載っている文集のようなものがある。小学生の私の書いた詩も載せてもらってある。大きく成長してからそれを読み返すと、小さな子の考えることはこんなにも純粋なのに、どこか的を得ていて鋭いんだなあとただただ感動した。詩や作文なんかもその人を「垣間見る」ことが出来るから好きだ。

いろんな作品を読んでいくうちに、読み終わる頃にはいろんな人生が頭の中に浮かんでは消えて、心の中の私はとてもおしゃべりになる。たぶんこれは私の癖で、小説でも詩でも俳句でも作文でも、作家の口調がなぜだか移っていろんな思考が頭の中をぐるぐると回る。自分はどの人生を送りたいだろう、これっていいな、今まで気づかなかったけどもしかしてこれって嫌なことなのかな、今度あそこに行ってみよう、、自分の人生が何なのかがいちばんよく分からない。いろんな人の人生を垣間見て、ひとつひとつに影響は受けているんだろうけど。 日替わりならぬ作品替わりで私の人生観は変化していく。

「結婚するなら同じ映画を楽しめる人が良い」とどこかで聞いた。人生に対しての価値観が似ているということなんだろうか、好きな映画や好きな音楽、好きな本…なんかはその人の人生についてどことなく表しているような気がする。新学期の自己紹介で「好きな〇〇は△△です」と言うときや、今まで隠していた趣味を友達に打ち明けるとき、カラオケで誰も知らないような好きな曲を入れるとき、なんかの妙な緊張感は、もしかしたら自分の人生の一部分について、をみんなに告白するからなのかもしれない。『思い切ってカラオケでリアルに聞いてる曲入れた』だ。まさに。

私の日々の生活や言葉から、他の人はどんなものを、どんなことを、垣間見るんだろうか。

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