見出し画像

私とパソコンとの関わり

 パソコン、パーソナルコンピュータというものが登場したのは、1974年ころだそうだ。今のパソコンとは違い、完成品ではなくキットとして発売されていた。有名なのは、アルテアというパソコンで、このパソコン用のソフトウェアをマイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツとポール・アレンが制作したりしている。
 日本でも同様のパソコンキットは発売されて、会社に勤める技術者用のはずが一般のマニアな人々の間で人気となったようだ。この頃はマイコン(マイクロコンピュータ、または、My Computer、の意味もあるとか)と呼ばれていた。
 その後、IBMがパソコン事業を始め(製品名がIBM PC、というのもすごいな、と思うが)、パーソナルコンピュータがマニアのものから一気に普遍的なものになっていく。IBMはパソコンを全部自社生産せず、他社の部品などを使い、仕様も公開していた。このため、IBM PC Compatible、IBM PC 互換機と言われるものが他社から発売されることとなる。
 ここら辺のアメリカでのPCやOS開発などのドラマは結構面白くて、昔は雑誌や本でよく読んだものだった。アップルコンピュータで一世を風靡したスティーブ・ジョブズも、この頃は少々胡散臭い山師的雰囲気があって、亡くなってさらに神格化されているような今とは大分異なる印象だった。NHKのドキュメンタリー番組でも何度か取り上げられていた。

 この頃の私はそういうものが存在していることも知らない田舎の子供だった。パソコンというものを知るようになるのは、テレビでもCMが流れるようになった’80年代くらいからか。刑事者のドラマで、中学生だか高校生の女の子がパソコン用のゲームだかで一攫千金を果たして、そのお金を巡ってトラブルになる、なんてものもあった。
 この当時は、コンピュータの仕組みなどもろくに知らずに、いろんなことができる機械という漠然としたイメージしかなかった。学校でパソコンを持っているのはクラスに一人いるかどうかというくらい。持っている級友から二進数だとかbitだとかプログラミングだとかコンピュータの基礎的なことを聞いた記憶がある。
 CDが出て、同じデジタルなら、半導体の小さなチップに音楽が保存されたりして、録音装置はカセットテープより小さくなるんじゃないか、とかパソコンを持っている級友に言ったことがある。
 音楽データだと記録するにはデータチップの量が多くなり、小さくはならないし、値段がとんでもないことになるだろうから、無理だよ、と鼻で笑われた。デジタルオーディオプレーヤーが登場するのはそれから15年程後になるが、出たときには昔の戯言が現実になって妙な感慨もあった。自分としてはもっと早く実現するだろうと思っていたけど。

 こんな私が実際にパソコンを弄るようになるのは、コンピュータ関係の専門学校に入ってから。CPUだのハードディスクだのといったハードウェアに、プログラミングを覚えて、割と夢中になって自分でプログラムを組んだりしていた。
 天文関係も趣味としてあったので、パソコンに表示する星座早見盤的なプログラムを組んだりもした。計算式は天文雑誌に載っていたものをプログラミングし、星のデータは理科年表からちまちまと手で入力した僅かなものだった。住んでいるところの緯度と経度と日本標準時を入力するというものだったが、星の数が少ないので、星座が判るのがオリオン座くらいなものだったがそれっぽい表示にはなっていた。

 専門学校で使っていたのは、業務用の旧型のもの(富士通製)だった。富士通はホビー用として、FM-TOWNSという新しいパソコンを出す、ということで話題になっていた。富士通のショールームがあるところでイベントがあって、くじ引きだかで南野陽子の写真が入ったトランプとか貰った記憶がある。今となっては時代の徒花となった感もあるが。私もちょっと欲しいな、とは思ったものだった。
 この少し後(1990年)、日本IBMから、少し変わったパソコン用のOS(オペレーティングシステム)が出ていたが、これが世の中(日本の)を変えることになる。今までは、日本語を扱うには専用のハードウェアで扱っていたので、日本語を使えるパソコンは日本製に限られていた。それをこのOS(DOS/V)では、ソフトウェアだけで行えるようになっていた。
 このことがどういう意味を持っているのかを、直ぐに認識できた人はあまり居なかったようで、出た当時はそれほど話題にもなっていなかった。私がこのことを知ったのも一年近く経ってからだった。
 前述したように、IBM PCには、ほぼ同等の機能の互換機がある。IBM PCで動くソフトウェアはそのまま大抵は動く。つまりは、DOS/Vも、それを利用するソフトウェアもほぼIBM PC 互換機で動くことになる。アメリカのPCメーカーは日本仕様とか考えずに日本に売ることも出来る。車で言うとハンドルの位置を考えずに済むようになったようなものか(当時はこんな表現がよくされていた)。
 同時に、いろんなパソコン部品メーカーのパーツの寄せ集めで出来ていたIBM PC 互換機は、パーツを自分で集めて組み上げることも出来た。そうしたパソコンのパーツを扱う店も増え始め、パソコンをパーツから組み上げる、パソコンの自作、そういうことも日本国内で出来るようになっていった。
 IBMが1984年にIBM PC/ATというパソコンを発表したが、このパソコンの互換機は、PC/AT互換機と呼ばれて、今に続くパソコンの標準規格となる。日本では、このパソコンを日本語で使用するにはDOS/Vが必要だったこともあり、DOS/Vパソコン、などと呼んでいた。その名を冠したパソコン雑誌もあり、テレビCMでもDOS/Vパソコンと呼ばれていたので記憶してる人も居るだろう。

 中規模のソフトハウス(という言い方も古いか。当時はそう言っていた。”IT企業”という言い方は内心未だにしっくりこない)に就職したのは、ちょうどバブル景気華やかなころで、上京し立ての私は秋葉原でもまだ少なかったPC/AT互換機やそのパーツを扱う店を覗いてみたりした。
 当時の秋葉原は、家電を買い求めに来た家族連れ以外に女性の姿は少なく、アニメ関連の広告がビルの外壁を飾ることも無かった。人通りも今よりも少なくて、土日でも新宿・渋谷と比べると人は多くなかった。立ち並ぶ家電販売店と、CMソングが店頭で流れているのが、他の街との顕著な違いだったか。東京都内でも外国人の姿が多い街ではあった。
 当時通った店の多くはもう既に無く、ビルごと無くなっているところも少なくない。そういった店で見るPC/AT互換機はデザインなど気にしたことも無いようなやぼったい長方形の箱でしかなく、色もクリーム色か白や薄いグレーが多かった。ちょっとアクセントに違う色を配しているものが目を引いたくらい。
 日本IBMのPCは元祖でトップメーカーだけあってそれらよりはデザインは良かった。
 個人的に好きだったのはDEC(Digital Equipment Corporation)のPC。デザインが良いな、と初めて思ったPC/AT互換機だった。DECはVAXというミニコンで有名な企業で、VAXは私も仕事で使ったことがあった。VMSという独自のOSを使っていて、OSコマンドがUNIXとは違うのでVAXとUNIXマシンを同時に使うようなときは結構煩わしく思っていた。UNIXは、DECのミニコンに初めて実装されたOSではあるのだけれど。
 余談だが、SF作家のジェイムズ・P・ホーガンは、このDECで働いていた時期があったらしい。
 DECは後にコンパック(Compaq)というPCメーカーに買収された。かつてIBMに次ぐ世界第二位のコンピュータ企業だったDECがパソコンメーカーに買収されるというこのニュースは当時割と衝撃的だった。
 コンパックはIBM PC 互換機を初めて作った企業だ。そのコンパックもHP(Hewlett-Packard )に買収される。HPも仕事でワークステーションを使ったことがあるせいか、あまりPCメーカーの印象は無い。
 ’90年代後半はアメリカのPC/AT互換機メーカーが大挙して襲来した時期だった。一般にはコンパックが低価格で印象を与えていたが、特に安いことが売りのメーカーでは無かったので、少々違和感もあった。コンパックとDELLは企業向けという印象。牛柄のゲートウェイ(Gateway)などは秋葉原に専門店を置いたりもしていた。
 ASTリサーチはパソコン専門店でたまに見かけるくらいだったか。半導体メーカーのマイクロン(Micron)は、マイクロンコンピューターというパソコンメーカーとして名前を覚えた。変わったところではAT&Tのパソコンとかも秋葉原では見かけることがあった。イタリアのオリベッティ(Olivetti)はノートパソコンのデザインが秀逸で、雑誌ではよく記事が載っていた。

 その頃は仕事でもパソコンを弄ることも多く、客先へ行ってセッティングとかしたりもしたことがある。勉強がてら、ケースやマザーボードなど一式購入して最初に組んだのはバブル景気も終了した後。会社も辞めたり潰れたりで、何社か転々としていた時期だ。
 もう記憶もはっきりしないが、インテルのPentium100MHz(その後AMDのK6に乗せ換え)に、ハードディスクは200MBだったか。ビデオカードはCirrus Logicのチップの物だった気がする。サウンドカードはSound Blasterシリーズのどれか。マザーボードにはPCIバスが搭載され始めた頃で、ATバスと二種類載っていた。私のPCのマザーボードはGIGABYTE製だったか。金が無いのでハイエンドなどは求めず、”安くてそこそこ”のパソコンだった。
 暫くして、AMDのAthlonというCPUが発表されると、その下位のDuronでパソコンを組んだりもした。そのうちAthlonに載せ替えればいい、と思っていたが、それはやらずじまいだった。
 パソコンの自作の話にになると専門的な用語ばかりになるが、説明するのも面倒なので分かる人だけ分かればよいだろう。

 その後もパソコンを自作したりして、洋物のゲーム(映画にもなった『トゥームレイダー』は英語版からやった)をしたりしていた。私がちゃんとゲームをやっていたのはこの頃くらいか。仕事も兼ねていたのでパソコンの自作という世界というか、そういうものにどっぷりと嵌まっていた。パソコン雑誌に投稿したり(その時の掲載されたことによる景品はどこかにまだあるだろう)、仕事で幕張や晴海では企業ブースでハードやソフトの説明などもしていた。
 それが変わったのは、パソコンの開発が多かった会社を辞め、パソコンハード寄りの仕事から離れてから。ブラック企業然とした零細企業を辞めて、年収もアップしたがパソコンを組み立て、などという行為からは熱意が無くなって行った。何度か引っ越して、そのたびにパソコン機材が減り、最後はノートパソコン(IBMのThinkPad)だけになった。

 2000年代に入って、IBMがPC事業を売却するという事態になり、数多くあったPCメーカーも淘汰されて少なくなった。パソコン自体も携帯端末の普及で売り上げは減り、日本ではパソコンを使えないという若者が増えているという。

 再びデスクトップ(実際はデスクサイドのタワータイプだが)PCを弄るようになるのは、ネット上で動画投稿サイトが登場したくらいのころ。
 3DCGをやってみたくなり、パソコンショップのBTOパソコンを購入してみた。このパソコンで動画投稿などもしてみたりした。
 型落ちの安物だったので、自分で中身を入れ替えたり(CPUはAMDのPhenomから、PhenomⅡ)してほぼ別物になったりしていた。今もそれはサブPCとして使っている。
 その後は動画の制作などにも熱意が無くなってきて、パソコンを弄るようなこともしてこなかったが、AMDの新CPU、Ryzenが評判が良くて懐かしさもあってパーツを集めて組み立ててみた。
 いやあ、最近のパーツはどれも光るんだな、というのが感想。マザーボードまで無駄に光る。組み立てやOSのインストールなども楽になった。
 パソコンは日本では一時廃れた印象もあったが、動画サイトで女性でもパソコンを組んだりしている動画を見かけるようになった。隔世の感がある。

 今のパソコンは、その時のパソコンのCPUだけ入れ替えて(Ryzen7からRyzen9)このエッセイを書いている。新しく組むようなことも当分なさそうだ。パソコンを弄るのもこうしてテキストを入力するくらいになっているし。
 パソコン、というハードウェアは何時まで使われ続けるだろうか。それを私は何時まで使っているだろう。


 マザーボードの電池切れで、久しぶりにケースを開けてみたので、パソコンの歴史と自分の来歴を書いてみた。ちょっと長くなってしまったか。

いいなと思ったら応援しよう!