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超次元的実戦川柳講座 その4「悲しみのとりこぼし」

(いつものように前書き。以下の文章は2022年3月12日に伊那市文化講座で行われた川柳の講義録を基にしています。やや複雑な話をしたので、ご質問あればコメントくださるとありがたいです。そしてこの講義録、一部有料です。単体で買うよりマガジン購入がお得ですよ。というセールスを経て、今日もお付き合いください) 

 こんにちはー。随分とお久しぶりになりました。(*蔓延防止措置のため、川柳講座が延期になっていました)。この疫病、もういい加減、みんなうんざりしてますよね、と言うか「飽き」はじめている。俳句でも、もうコロナの句はかなり減ってきたそうですが、川柳でもそれは同じです。代わりに国際情勢。これはね、前回話したことをなんとなく思い出してもらえばわかると思うんだけど、必然的な時事詠とそうでないもの、ってあるんですよ。お前それ作る理由がないだろ、って言うのが今日も新聞の川柳欄には並んでいるわけです。というルサンチマンは置いときましょう。われわれはわれわれの川柳をする、ということで。いやそれに特権意識持っちゃいけないんですが。
 で、なんで「川柳作ってる」って言うと特別扱いされるのか——これは事実で、まあ白眼視とも言い換えられます——、「なんか難しいことをやっている」みたいな扱いをされるのか、ってちょっと考えてみたいと思います。
 まず、というかそれしか思いつかないのが、五七五の十七文字にまとめるということ。これはたぶん、「言葉に枷をはめられる」みたいな恐怖をうっすら感じさせると思うんですよ。そこに魅力を感じる人も無論いると思うんですが、まあ、その人ははっきり言って変態です(笑)。むろんいい意味で。いや悪い意味かもしれないんだけど(笑)。
 で、十七文字にまとめる、ということですが、これは完全に技法なんで、恐れることでは全くないです。と言うか、十七文字という檻があったほうが、言葉は出てきやすい。この講座で展開してきた、音字数を合わせると言うことは、その理屈の上に立っているわけですね。
 そこから一歩進めて、今日は、音字数の面とは別角度から——ただし音字数の問題はつねに意識しつつ——「十七文字で表現する」の「表現の技法」について考えてみたいと思います。これは大事なことなので、来週と続けて二回にわたってお話しします。集中的にやります。こう考えると、蔓延防止措置でスケジュールが濃縮されてよかったですね(笑)。それはともかく。
 たとえばなんですが、「悲しい」ってことを表現したいとしましょう。
 この時に「悲しい」と単に言ってしまうと、作品としてほぼ成立しないわけです。何故かと言うと、「悲しい」という言葉は悲しくないから。ややこしいかもしれませんが、「悲しい」というのは人間の情動を分類したラベルの名前でしかないのです。人間がいろいろなことで思い悩み、苦しみ、なんて言うのも「ラベル」でしかないわけですが、人は悲しかったら意外と目玉焼き作って海苔のっけて「独眼竜政宗〜」とか言ってたり、一週間かけて組んだレゴ分解してたりするわけです。そうした人それぞれの感情の発露のしかたを、「悲しい」という言葉は一括りにしてしまう。個々人がどんな感情を持っていたのか? ということを表そうとする時に、「悲しい」は別に悲しくないわけです。その点を逆手にとって、「悲しい」という言葉を使って表現の可能性を追求する手法もありますが、これは時間ができたら言及します。
 でですね。いま「悲しい」という表現について述べましたが、これは悲しさ、だけに限ったことではなくて、何かを感じる、何かをしているとき、人は一見全然別の感情・または行為をしています。それは現実逃避とかそう言うことではなくて、「表現」というものが、このわれわれが生きている世界では、そうした行為を通してしか「表現」のレベルに達しないわけです。この場合の「表現」っていうのは実際の「生」のなかでもそうだし、短詩型の作品のなかでもそうです。
 と言うより、現実の「生」を写そうと思ったら、必然的に「表現の技法」を使わなきゃいけなくなるんですよ。繰り返しますが、これ、「悲しい」だけじゃないです。ある表現をしようと思った時、その「ラベルの名前」を読むだけだと、それは表現からほとんどのものを取りこぼしてしまうんです。
 もちろん、それは一〇〇パーセントは伝わりませんよ。その「伝わらない」ことに逆に希望があるわけです。ラベルに書いてある「悲しい」に取りこぼされた感情、それを人は自分の感情と呼びます。で、これをなんとかして伝えたい、あるいは読者が読み取りたいと思う、その運動があってはじめて「作品」が作品として成り立つわけです。
 で、その「言いたいこと」って一〇〇パーセントは伝わらないんだけど、「伝えようとする」ときのフォームは必要になってきます。それがないと全くの自己言及しかしていなくて、「ラベルを読む」のと実は同じになってしまうのですね。無論、無意味でもいいし、人にわかってもらえなくてもいい。ただ、「表現」というものが「伝達」であるならば——この場合の伝達する相手とは他人だけでなく、自分であっても同じことです——表現にはある種の技法が必要になる。それがたとえば、前回言った「デッサン」の力であると思います。
 ここで「デッサン」の観点から、ちょっと一句見てみましょうか。
 
  墓石を狂気のごとく磨く夏  石部明
  
 すばらしいですね。いや本当に。
 全くカメラワークにブレがありません。まず「墓石を狂気のごとく磨く」という「行為」があります。これを行なっているのはまあ、作者じゃないですね。なんで作者じゃないかは後述します。でも「彼」とか「小山田圭吾」とかでもない。とりあえず、この作品中で主に行為をする存在、ということで「作中主体」と普通は呼びます。「作中主体」は短詩型を書く/読む上で「前提」なので、どうかそのあたり留意しておいてください。
 で、この「墓石を狂気のごとく磨く」っていう行為は、作中主体の行為として、凄くストレートに表現されているわけです。迷いなく引かれた一本の線の感じ。

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