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川柳自句自壊小説 嗅

 馬糞花が咲く頃、脚萎船で男と女がやってきたが、男のほうが桟橋で鼻孔をひくつかせ「臭えなあ」と言ったのを獅子虫売りの老爺が聞いていて、今度の連中もいつまで保つかどうかと、湾の人びとは口さがなく噂しあった。

 二人が居を構えたのは、泥海にせりだす崖の上の鳥糞小屋だったが、そこからは海の反射と水温で、強烈な匂いの元である鶴丸化学のつがい煙突が、赤黒く描かれた渦状紋までゆらいで見えた。

「俺、あの工場で働きてえなあ」

 と蜥蜴行李を解きながら男は言ったが、女はこの皮膚に錆鉄がねじ込まれるような悪臭を嗅いだその時から、男の職がいつものように長続きしないのだろうと予感しながらも、いつもように黙って、蒸し俎を研いでいた。

 あくる朝、男は湾の奥にある百貨店へ日用品を購いに出かけていったが、工場について誰かに尋ねようとしたのとどちらがついでだったか自分でもわからず、粘土蔵造りの店前には甘粥の屋台が出ていて、その糖類の香りがいっそう工場の悪臭を引き立てており、鼻も脳髄も冒されそうになりながら、百貨店の老店主に声をかけた。

「あれじゃねえか、この匂いはたまらんね。この界隈、いい土をしてるってのに」

「慣れることさあ」

 と店主は答え、「どこに行ったってそうさね」と付け加えた。

 男が小屋に帰ってそのことを伝えると、女は、わたしもそうだった、と簡易黒板に白墨で書いて、きんじょのおばあさんたちとはなしたのだけどみんなそれがたいせつなことだってなれることとふつうになることはちがうんだってけど、とまで記したところで余白が無くなったので手を止め、短くなった白墨をそれ以上使わなかった。

 おばあさんたち、と言うのは所謂強化婆の三人で、夜行性の金属の眼が赤青黄の順に権勢を握っているらしく、赤目の婆が「ここに棲むんならね、脳天も鼻も慣れてくるもんさ」と嗄れ声で断言し、「それにしてもあんたの宿六、腐っていきそうだねえ」と小声で黄婆が言った。

 予言通り、毎朝のように男は出かけていったが、工場の勤め口を探したとも、工場の情報自体を見つけたとも言わず、女はそのことを問い質そうと毎晩簡易黒板を取り出しかけたが、白墨が残り短くなっていて、これではいざ大切な一言を伝えようとしたときに困窮すると思い、無言の一夜一夜が徒に過ぎていった。

 ある晴れの朝、ふたりで崖を登り、ビー玉屋跡の更地にたたずんで、生暖かい海風と匂いにつつまれながら、男は「やっぱり、この匂いには慣れんなあ」と傍らの女に話しかけたものの、女は簡易黒板を持ってきておらず、何を思っているのかわからないまま、接吻すると、口臭に工場の悪臭が引き立ち、ああ、俺たちをつなぐものは、もうこの匂いだけになってしまったなと思いつつ、抱いて、二本の煙突の手前に金母草の綿毛が揺れるのを上目遣いで見ていた。

 その夜、女は三婆に誘われ鶴丸祭りに出かける際、男を横目に見るといぎたなく眠りこけていて、糞まみれの戸を閉めても起きた様子はなかった。

 強化婆の三人はともかく、自分に闇は暗すぎると思ったが、百貨店は工場のサーチライトとぼんぼりに照らされて、あつまった人びとはみな緑色に輝いていた。

「あっさああさ。ぱっぱっぱのさっ」

 普段は無口な青眼婆が叫声して、音割れした南洋音楽にあわせ、人びとはみな一斉に身をくねらせて足下の土を掘りはじめ、その動作に掟はあるようだったが青眼が「掘らし。掘らし」とせき立てるので、女は不如意ながら素手で地を掻き続け、音曲の律にしたがって自分の体が躍動するのを確かめつつ、汗みどろの皮膚を確かめつつ、この瞬間から自分は匂いを受け入れていた、いやもうずっと前からそうであったと感じていた。

 夜明け前だというのに、小屋に男は胡座をかいていて「どこに行っていた」と訊いたので、女は、この男は鶴丸祭のことも知ろうとしないでこの湾に住まおうとしていたのかと、嘔吐するような感情が激して、埃をかぶっていた簡易黒板に書き殴り、白墨は消尽した。

 暁暗に文字は見えず、男は、女が黒板の文字を消すだろう、そして永遠に自分の前から姿を消すだろうと予感して、そしてそれは半ば現実になり、気がつけば簡易黒板ごと失せていて、小屋を出れば、鶴丸化学の煙突の間から、これ以上ないくらいぶよぶよとした太陽がのぼるのを見て、ああ、俺は生まれてはじめてひとりになったと感じた。

 女は再び脚萎船で去ったとも、内陸の峠を越えて行ったとも、或いは三婆とともに夜行しているのだとも、湾の人びとはやはり口さがなく噂しあっていたが、なぜか鳥糞小屋の男について触れるものはいなかった。

 ふたたび馬糞花が咲く季節になったというのに、今朝もまた、男は「臭えなあ」と呟いた。

  匂いの町へゆるやかな坂  大祐

#小説 #川柳 #創作 #川柳小説 #ブンゲイファイトクラブありがとうございました

 


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