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超次元的実戦川柳入門 X-2「世界にツイートする・ツイートする世界」

 
 こんにちは。実戦川柳入門です。とみなさんに呼びかけることができるのも、これが「インターネット(古びた単語)」の上で駆動しているからに他なりません。
 今日は、インターネットに代表されるニューメディアの上で、「川柳」がいかに消費されているか? あるいは、作り手がいかに焼尽されているか? ということを少し考えてみたいと思います。手がかりとしてニューメディア/オールドメディアの狭間に立つ『川柳EXPO 投稿連作川柳アンソロジー』(まつりぺきん・編著)を主な参考にします。今日は「読み」中心。お盆の中日だしね、ということはあまり関係がない。


(なお、本記事は一部有料ですが、定額マガジンのほうがお得に読めます→https://note.com/16monkawai/m/m6f960fe28e19 )
 

1、物語と川柳

 で、いきなり迂回路を通るわけですが。
 川柳というものは儲かりません。買う人がいないからです。身も蓋もなく言うと。この「買う人がいない」ということはつまり、「川柳に金を払って読む人がいない」ということになります。これはネット上でも、紙の本でも(あるいは電子書籍でも)事情は変わりません。いやそんなことないよ、川柳の本(俳句、詩を含む——短歌はやや事情が異なるので後述)だって売れてるよ、と思われる方もいるとは思いますが、じゃあ街に(ネットに)あふれる「物語」——小説であろうとノンフィクションであろうと漫画であろうと——に比べたとき、パイの少なさは愕然とします。
 そもそも、「川柳の本」を出すときに、著者がお金を出して出版しなきゃならない制度は、おかしい。おかしいと思いますがこの世のルールは今もこの通りであり続けています。
 川柳は儲からない、という何の夢もない事実はともかくとして、「読む人がいない」という現実のほうがわたしたちには打撃なんじゃないでしょうか。
 よく聞くのが「川柳はわからない」「川柳の読み方がわからない」という言説です。
 あんな長く分厚い「小説」を読む人が、たった十七音字を読むことができない。
 これは結構な衝撃であります。
 その衝撃は衝撃として、今は棚上げしておきます。「川柳が読めない」という人々に対して「こう読むんだよ」とガイドすることも、今回の本意ではありませんので、しません。
 ただ、現代の状況として、「物語」が圧倒的に消費物として享受されていること。その点にだけ絞って今日は考えてみたいと思います。
 何故、人は「物語」を受け入れて「川柳」を受け入れないのか。
 ここで注意したいのは「川柳」は「物語」ではないのか? という疑問です。
「川柳」においても「物語」は存在する場合があります。
 たとえば、幾度か例に挙げていますが、
 
  或る決意 動物園の檻の前/時実新子
  
 なんかはもろに「物語」ですよね。実際これは『有夫恋』という世間から例外的に消費された句集のなかの一句です。
 ただ、この類の句が「物語」として消費されているかどうかと言うと、正直微妙なところです。
 ここで、あらためて「物語」とは何か? について押さえておきましょうか。
「物語」には主人公がいます。この主人公に困難がふりかかり、さまざまな行動の果てにクエストが完了され、主人公は「成長」をする。
 ものすごい雑なまとめですが、これがおおよその「物語」の骨格です。
 ではこれと「川柳」と何が違うのか。長さが違う、ということ自体はすぐ後で述べるようにクリティカルな違いではありません。クエストの攻略、についてはそれを成し得た句は数多あります。
 では何が違うか、というと、「主人公」の不在によるのではないかと。
「物語」においてクエストを果たすために必要なのは「主人公」、即ち「主体」です。この「物語における主体」をめぐる問題は、さまざまな実験小説を産み出していますが、それはここでは触れません。ただ、「物語」には困難に遭い、それを克服する「主体」が厳として前提されている、ここを押さえておきます。
 ならば「川柳」はどうか。川柳って、主体が弱いんですよ。と言うか、「主体」のゆらぎこそが川柳の起動力であり、魅力であり、特色であります。このことはこれまで何度か言ってきました。(→超次元的実戦川柳講座 その9「ぼくの大好きなクラリネットを破壊したのは誰か?」を参照)。
 いちおういま補足しておくと、それは川柳が「短いから」という理由ももちろんありますが、それだけが根源的な理由ではありません。むしろ「前句付け」として誕生した経緯、明治以降に「新川柳」として文学の中のガラパゴスとして発展したことに理由を求めるべきではないかと。(ちなみに「主体」をめぐるひとつの模索として大正〜昭和初期の「新興川柳」のムーブメントを捉え直すことも可能です。この辺についてはいずれ)
「小説」を読む人が「川柳」に不安を覚えるのって、この「主体」への不安に居心地の悪さを感じるのではないか? もっと言えば、「川柳がわからない」ということは「主人公がわからない」ということとの、少なくともニアリーイコールではないかと思うわけです。
 ここで付け足しておくと、短歌というジャンルに関しては「主人公」が比較的明瞭でありやすい。ここにおいても「短歌」の「長さ」が主たる要因ではなく、「短歌」という「場」が「主人公」を明瞭にしやすいから、ではないでしょうか。「短歌」の「場」については『桜前線開架宣言』(山田航編著、左右社、2015年)を読むのが一番適切だと思われます。
 

2、Twitter(旧)と川柳

 なんかXというのも恥ずかしい(この講座のナンバリングにXと入れてる自分も相当ですが)し、いずれXってTwitterにもどるんじゃねーかなー、という希望的観測も含めて、ここでは昔の名前を使いますね。
 で、Twitterにおける「川柳」の隆盛についてはあらためて言うまでもないですよね。事実こうやってnoteで講座発表してるのって、Twitterとの連携があってこその面がありますから。
 最近の話なんですが、まつりぺきんさんが『川柳EXPO 投稿連作川柳アンソロジー』という書籍を出されて、ひとり20句の連作を、51名の作者が提出したと言う事件(!)がありました。成瀬悠さんも「Twitter川柳アンソロ」で数多くの川柳をまとめられていて、これもまた事件的な出来事だったと思うのです。
 で、なんでこんなにTwitterと川柳は相性が良かったか、ということなんですが。
 まず言えるのが、Twitterの「キャラクター性」に理由を求められるということです。
 Twitterは基本匿名の世界です。匿名であるけれど、アカウント名があり、アイコンがあり、プロフィールがあります。そして何より、「その人」が投稿した、あるいはリツイート(リポストとはあえて言いません)した「ツイート」の集積があるわけです。これらはどんな履歴書よりも「その人」についての情報を詳述することになります。
 そしてそのアカウント名・アイコン・プロフィールはいくらでも変更可能であり、「匿名」ということが逆に「キャラクター」の創造をある程度までは制御できることになります。無論、「その人」の無意識が顕になってしまう局面も往々にしてあるわけですが。
 ただ、この「キャラクター性」とは、かなりの深度をもって「主体」と見せることができる——錯視させることができるのではないでしょうか。
 Twitterにおける「川柳」には主人公が居る。何よりもその「句」に連結されて作者の名前とアイコン(これらが恣意的に変更できる変数であることが、いっそうの「個」の意識を感じさせます)が表示されるわけですから。
 ここにおいて、「川柳」の「主体」のゆらぎは損なわれたわけではありません。あくまで「作者」というものが仮定されたフィクションでしかないですから。むしろ、「主体」の弱い詩形である、という点は強調されていると言ってもよい。ただ、「仮定としての主人公」は保証される(ように見える)ことになります。
 ここまで、「川柳」を「読む」立場から考えてきました。では「書く」側からすればどうなるのか。これはほとんど軌を一にした、しかしいっけん逆のことが言えると思います。

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