怒りで脳が焼ける

[1]脳焼け
 話の通じない人とどうしても対峙しないといけないとき、脳が焼ける感覚になる。何度も同じことを角度を変えて話してみたり、なぜか話を遮られたり、「分かった分かった」と言われるものの何も変わらない現状に怒りが湧いてくることがある。
 僕は本当に、同じ人間と話しているのか?他人の時間や、労力や、気持ちを感じる器官が存在していないんじゃないのか?そんな気持ちが怒りとして湧き上がってしまう。しかし、せっかく湧き上がるこの怒りをぶつけても、どうせそれすらも伝わらないと思うと、自分の脳の中だけで怒りを処理して無理矢理鎮めてしまうものだから、脳がチリチリと焼けるような感覚だけが残る。
 それは火の通ったベーコンのように不可逆的なもので、怒りで少し脳が縮むと、きっともう元の脳には戻れない。そんな感覚に陥って、鎮めた怒りを溜め息にして体から出して、何もなかったかのように過ごしていた。が、体調は少しばかり嘘をつかずに崩し気味だった。

[2]扁桃体
 毎日僕は一時間近く歩いている。「その男、凶暴につき」という映画は「歩くシーンが非常に多い映画」と言われている。監督はそれを「尺稼ぎ」と言っていたけれど、自分にとって「歩くこと」はネガティブな感情と関わる上で重要な役割を持っている。
 ネガティブな感情を司る目の奥にある扁桃体を、歩くことで毎日均している。歩くことで、なんだかよく知らないけれど気持ちをポジティブにする脳内ホルモンが出るらしい。慢性的な怒りと心身の不調を日々抑えているのはこうしたルーティンの中に隠されている。
 しかし、なんでそもそも、話の通じない人と関わらないといけないのか。そう思うと、その人の顔や声や歩き方までもが脳内に幻影として立ち現れてしまう。話の通じない人の存在自体が、目の前にいてもいなくても自分を苦しめ、怒りを生み続けるマシンと化してしまう。それはきっといくら歩いたところで、なんの根本的な解決にもならない。
 そんな思い出し行為でまた少し脳が焼け、どっと疲れて眠りにつき、疲れの取れきれない体で朝を迎え、また歩いてポジティブな脳内ホルモンを出して会社に向かい、話の通じない人と対峙し、脳が焼ける。そんな現代版の地獄の連鎖に飲み込まれて冬を越しそうな自分だった。

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