親ガチャにハズレはない

 自分の人生をガチャの帰結として考えるなら、一度生まれてしまった「私」は、その人生のなかで何も選択することができなくなります。「私」が何を望み、何を選ぼうと、「私」の人生は決まっているからです。そのとき「私」にとって自分の人生は、まるで他人の人生のように眺められるでしょう。まるで自分とは関係のない、遠い世界の可哀そうな人の物語のように見えるのではないでしょうか。その様子を冷めた目で幻滅しながら眺める態度こそ、親ガチャ的厭世観なのです。

戸谷洋志『親ガチャの哲学』78・79頁

[1]親ガチャ
 「親ガチャ」が当たりかハズレかは、生まれた本人の尺度でしか判断できないけれど、「ハズレである」と結論付けてしまったほうが、今の現状に沢山言い訳を作ることができるので、生きやすかったりする。
 僕の家庭が決して裕福でなく、早々に離婚もしたり色々問題も抱えていたので、他人から見たら僕は「親ガチャハズレ」勢なのかもしれない。確かに裕福度でいうと相当下だと思う。けれど不思議と、「生まれてこなければ良かった」なんて一度も思ったことがなかった。親ガチャは大当たり、それもミラクル大当たりだ。
 言い訳を作るには親ガチャはあまりにも便利だけど、なるべくそれを選ばないように生きてきた。ただ、親ガチャを言い訳にしない人生は、同時に「生まれや環境に縛られて人生をひっくり返せないかもしれない」という事態に直面し、どうしても乗り越えられない時、恐ろしいくらいの挫折となって立ち現れてしまう。

[2]答えはまだない
 自分の人生の挫折を振り返った時に、悔しいくらい「お金の問題」、ひいては「お金を稼ぐために時間を確保することが難しい問題」というのがついてまわっていた。それは今もそうかもしれない。
 まず挑戦のスタート地点に立つためにお金をせっせと稼がなければならない。いや、そもそも働いて暮らすところから始めないといけない。暮らせるようになったら、なんとか余剰のお金を捻出しなければならない。そうやって毎日疲労と格闘しながら切り詰めてお金を作り出して、ぜぇぜぇ肩を揺らしながらスタート地点に着いた時には、裕福なライバルはもう見えないくらい先を走っていたりする。
 そうなってくると、シンプルに自分の実力が足りなかったとしても「いや、一緒によーいどんでスタートできない時点でどうしようもないじゃん」といって、ああ、人生無理ゲーじゃないか、何で自分はもうすでにこんなに疲れているんだろう、と絶望したりする。
 この深い絶望感に対して、生憎まだ僕は答えを持ち合わせていない。とにかく毎日もがいて、もがいている自分を肯定して、なるべく適正な睡眠をとって、明日もまたもがく日々を重ねている。ただ、お金はなくとも親ガチャは大当たりなので、前向きに生きることはできそうだし、色々な幸せの尺度を考えることができて、案外楽しかったりもする。不幸は自分の内側に、幸せは自分の外側に沢山転がっている気がしてならない。

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