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愛別離苦が止まらない

[1]愛別離苦が止まらない
 「いつか死ぬし今日死ぬかもしれない」と毎日思いながら生きている。けれども実際は「まああと3年くらいは死なないだろう」と呑気に生きているものだから、本当にやりたいことの優先順位が低くなり、暮らしを楽にするため眼前の銭を稼ぐことが優先されてしまう毎日になっている。
 今年に入り、愛別離苦が止まらない。それは母との死別であったり、大事な場所が連続でなくなったり、色々な形で「別れの苦しみ」が波状に押し寄せている。どうあがいたって変化の苦しみ、好きであるが故に離れる、変わる際に生じる痛みは避けることができない。それは接着剤でうっかりくっついた指と指を剥がす程度の痛みではなく、まるで臓器を削がれるような、心をかち割られるような、長く深く刺さる痛みであったりする。

[2]まだ執着している
 「大切な人、場所と離れたくない」という気持ちはここ数年でその強さを増している。本当に価値観の合う人なんて一握りだということ、そしてなんとか出会うことのできた価値観の合う人ともいずれは別れなければならないこと、大事な人や場所を共有できる時間は想像しているよりも多くはないこと、そういった諸々の事実が年齢を重ねるにつれて、輪郭をもって現れてきている。
 仏教では、愛別離苦を引き起こす諸々の別れの元凶になる「執着」を捨てなさいと説いている。それならば、僕はまだまだ執着まみれの人生だ。後何百光年も死にたくないし、身の回りの大切な人たちと一生ヘラヘラしながら暮らしたい。
 けれどもいずれは自分も、みんなも、順番にこの世の中と別れなければならない。どうやらそれだけは確実なようだ。
 何故か僕はそういったことを、バンドメンバーと合流するために乗っていた早朝の電車の車窓から見える雲を眺めながら考えていた。これから僕は大切なバンドメンバーと会って、どこかにライブをしにいく。あとどれだけ、当たり前のようにこんな楽しい時間を共有する日々を過ごせるのだろうか。
 まだもう少し、なるべく長く、バンドには執着したいと思ってしまっている自分。そんな自分を、今は肯定して生きてみるのも悪くはないと、仏教に反して自分を説得していた。いずれは執着も捨てるのだろうけれど、その過程を楽しませてもらっている。
 

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