大人になればなるほど

 大人になればなるほど、いまここにいる〈私〉の弱さと脆さを隠さなければならない場所が増えてくる。デザインしなくて済む〈私〉を見せられる相手が段々と減ってくる。肩書、責任、役割のようなものに埋め尽くされて、その場にふさわしい振る舞いをするようになる。だから、サイバースペースでも現実世界でも、飾らない〈私〉の分人がいなくなっていくのだろう。
 かなり飲んだ後で、もう一軒行きたい、と、友人が言う。私は終電を逃す。最後の店を出て、飲みすぎて泥酔している友人を背負っているとき、なんでこいつのことを運んでやらなければならないのだ、と、思うこともある。財布も出せないから、金まで払っている。でも、こいつとの関係はトータルでプラス。私が泣いても、引いたりしない。この背中の重さが——当たり前だが——生きている人間の重さなのである。私にはそれをどうすることもできない。それゆえ、そこに他者とのつながりを感じることができる。

岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』244頁

[1]ソトの私、ウチの私
 家にいる限り僕は、ただぬいぐるみが好きで、インドアで、内気で、誰かに頼りたいのに頼る勇気も出ず、孤独な人間という、どうしようもない存在だったりする。しかしそれは紛れもない事実だし、恥ずかしいけれど後ろめたいことではないのでこうやって晒して書いている。
 一歩外に出れば「頼りたいのに頼る勇気も出ない」性質は、良くも悪くも裏返って「しっかりした人」として表象される。そこに会社員であったり、バンドのドラマーであったり、SNS上のキャラクターであったり、その場その場に応じてカスタマイズされた自分がデザインされ、形作られ、求められたものを演じて毎日を過ごしている。
 そして家に帰ったら玄関で全てのデザインの衣を振り解き、「今日も頼りたいのに頼れなかったなぁ」と自省しながらぬいぐるみを囲まれて眠る毎日を繰り返している。こうして飾らないウチの私は、家の玄関から外には出ることができず、「頼りたいのに頼れないウチの自分」と「しっかりしているソトの自分」がどんどん乖離していく。今は少しずつ誰かに頼る練習をしている。

[2]大人ってかわいそうだね

ドラえもんの一幕

 ドラえもんは「大人って、かわいそうだね。」と屋根の上でのび太に語りかけている。「どうして?」とのび太が答えると、「自分よりおおきなものがいないもの。よりかかってあまえたり、しかってくれる人がいないんだもの。」と言葉が続く。
 僕はこの場面が大好きで、事あるごとにこの言葉を思い出しては、「あまえたり、しかってくれる人がいたら良いなぁ」と思っている。そう、文字通りただ思っているだけで、何かするということはないのだけれど。
 そして、もう少し自分の生い立ちと照らしてこの言葉を深く考えてみると、僕は小さな頃から甘えたり、叱ってもらうことができなかった。しっかりすることで、頑張っている母親に迷惑をかけまいとしていた。そして、それが当然だと思って人格を形成していた。
 つまり僕は、小さな頃からドラえもんの言う「かわいそうな大人」であり、「家にいるのにソトの私」をデザインして、演じ続けていた。
 弱気で内気なウチの私は、人には見せていけないものとして、小さく小さく折り畳まれて、部屋の隅に置かれ続けていた。最近は、その「ウチの私」を拾い上げては、小出しに広げて頼れそうな人に見せていかないとなと思っている。
 どうしようもない自分を受け入れてくれる人を少し増やして、自分の弱さや脆さを隠さない場所を作って、少しだけ呼吸しやすく生きていけるようになれば、どんなに人生楽になるんだろう。そんな小さな希望を抱いては、大きな弱さを見せる努力をしている。
 

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