疲れる季節

 アドラーは、「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっている。実際、人との関わりは摩擦をもたらさないわけにはいかない。そのようなことを経験するくらいなら、いっそ誰とも関わらないでおこうと考える人がいてもおかしくはない。
 しかし、生きる喜びや幸福もまた、対人関係の中でしか得られないのも本当である。生きる喜びや幸福は対人関係の中でしか得ることができないのであれば、対人関係の中に入るしかない。しかし、傷つくこともあることを思えば、対人関係に入るのには勇気がいる。この勇気のない人が、他者を敵と見なし、対人関係の中に入っていこうとしないのである。逆にいえば、他者を仲間と思えれば、対人関係の中に入っていく勇気を持つことができる。

岸見一郎『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』124頁 

[1]一人で生きたい
 最近は身の回りに優しい人が多いおかげで、世の中の大半はどうも「関わりたくない人」だったことを忘れていた。悔しいけれど、そういう現実を思い起こしてくれる仕事は必要悪なのかもしれない。今日も僕は、仕事中にパソコンを見つめて、会ったこともない東京の人の語気の強いメールを眺めて「人間疲れる」と思っていた。
 僕は我儘なので、都合良く一人で生きていきたいと思っていたりするけれど、結局都合良く一人で生きていくことはできない。けれどそう思ってしまうくらい、こっちは毎日誰かの言葉や空気感や不誠実や、他人の作る有象無象の自分勝手な我儘に振り回されて勝手に傷だらけになっていたりする。
 安易に他人から傷つけられて、ボロボロの体で縋るように本を開けば「生きる喜びや幸福は、対人関係の中でしか生まれない」という言葉を割と簡単に見つけてしまい、「またまたご勘弁を」と思ってしまう。

[2]疲れる季節
 「疲れる季節」というものがある。他人と関わる時「傷つく」と別の観点で「疲れる」がある。これが非常に厄介で、「傷つく」のであればまだ避けやすいけれど、関われば関わるほど「疲れを与えてくる人」は分かりにくく、纏わりつくような不快感がある一方で、「疲れる」原因の他人は自分の加害性を微塵も感じていなかったりする。
 関われば関わるほど泥沼にハマる、事態がややこしくなる、パワーが奪われる、無意識に相手への配慮が欠ける、自分の善意が世界を包んでいると思って疑わない「疲れを振りまく人」がいる。
 たまに、いや、割と、こういう類の人にも出会ってしまう。自分のメンタルが健全なときは跳ね返せる。けれど少し弱っている人は、この「疲れを振り撒く人」に蝕まれてしまう。
 僕はこういう時期に入ると「あぁ、疲れる季節に入ったな、と思う。「何もしてないけど疲れさせられる」他人がやたらと絡んでくる時期は、台風のように数日で過ぎ去ってしまうのではなく、季節ような長いスパンでじっくり過ぎ去るのを待つしかないのだ。自分では解決することもできず、なす術もなく、ただ、ゆっくり過ぎ去るのを待つしかないのだ。
 今は自分は「疲れる季節」の中にはいないが、しつこい寒さと仕事の相手がこんなことを思いださせてくれた。早く春が来てほしい。
 

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