言い訳は作りやすい

[1]また貧乏の話
 YouTuberが、とある大学でアンケートを取っていた。そこは、かつて大学院当時の僕がお世話になった場所でもあり、アンケートの内容は「親の年収を教えてください」というものだった。そのアンケートで得られた親の年収は世帯の平均年収よりも遥かに多く、僕の親の当時の年収と比べると数倍に及ぶ額だった。
 大学院に通っていた当時の僕は「やりたいことに時間を十分確保できない」言い訳に「貧乏」を使っていた。そんなことを思い出していた。
 確かに当時「なにをやるにもまずは稼がなきゃいけない」という理由から誰よりもバイトに沢山入っていた。そしてバイトに入れば入るほど時間がなくなる負のスパイラルに陥っていた。お金がない、全て貧乏のせいにして至らない自分を正当化していた。実際は自分の実力が足りていないだけだった。
 令和に入ってからようやくそんな馬鹿な自分を律することができたのに、数年後、年収アンケートの回答という形でなんとなく輪郭をぼやかしていたものを「数値化」されて少し参ってしまった。やはり、貧乏は人生にとって不利な条件なのか?


[2]未来の話
 なぜ、こんな話をするのか。それは、大阪発の始発に乗って名古屋に向かっていると、センター試験、ではなく今は大学入試共通テストに挑む学生が三重あたりからわんさか乗ってきたからだった。
 これから未来が決まる勝負に挑む学生に埋め尽くされた車内で、「貧乏」を言い訳にしていた過去の自分が立ち現れていた。センター試験を受けた当時の自分は未来に希望を持っていたのに、その数年後には「貧乏」を理由に現実から逃げ回っていた。
 今思えば「貧乏」は大いに武器になるはずだった。学生当時から周りの人と比べて、誰よりも労働とお金の関係性を身に沁みて分かっていたはずだった。そして、お金がなくともあらゆる工夫を凝らして毎日を楽しくしようと心がけてきた。その工夫は、人生の糧になるものだった。
 いつの間にか、貧乏を「できない言い訳」にしてしまっていた。確かにそういう側面はある。しかし、毎日の身に迫る危機感を、自分のやりたいことに楽しく変換できたはずだった。お金の有無が幸せの尺度ではなく、自分の心の持ちようが幸せの尺度であるべきだった。今はそう思う。
 これから入試に向かう学生の会話を聞きながら、もっと彼ら彼女らの試験の成功を祈ってやれよ自分、と器の狭さを感じながら静かに目を閉じていた。

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