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銀桂酒

片目眇目の老人が、ゆっくりと杯を傾ける。
杯の中の銀木犀を漬け込んだ酒は、とろけるように甘く芳醇な香りは、まるで月の水晶宮に住む女神が、その微笑みとともに注いでくれたようで、今宵は舌も月も一体どこへ落ちたものか。
老人は、かつて朱色の欄干に凭れて、花束のように着飾った女達と遊びを嗜み、友人とも呼べる者とは、世界中の酒の飲み比べを競ったが、
今の時ほど、この老人の心を緩やかに解きほぐしてくれるものは、なかった。
玉から生まれたような美女の相手をしても、萌木色の若芽のような可憐な娘をからかっても、
菊を漬け込んだ山吹色に輝く酒や、夕闇の色のような欧羅巴の葡萄酒をたらふく飲んでも、
若い頃の老人の心の中は、完全に満たされず、何やら、どうしようもなく燻っているものの存在を感じ取っていた。
心の中に、なにやら海中の渦のように憤ろしいものがあって、これを早くどうにかしないうちには、自分は何をしても完全無欠になれない、と思っていた。
けれども、その濁流に世界中から見つけた面白いものや、興味をそそられることを投げ込んでも、穏やかになるどころか、それはどんどん、飲み込む強さを増していった。
女遊びが、一時の渇きを癒してくれる雫になるなら、それを浴びるほど飲んだ。
友人と諸国を遊び回るのが、慢性的な飢えを満たしてくれるのなら、我慢できずに吐き出すほど、それを喰らった。
そうやって過ごしているうちに、やがて周りの人々は、自分たちが老人の心を埋めるだけの代用品だということを薄々感じ取り、粗雑な扱いを受けるのに辟易して、全員老人から離れていった。
そうやって、世界中のありとあらゆる物を、なんでも欲しがって飲み込む怪物の餌として与えて、ついには何もかも無くなってしまったのだ。
一人になった老人は、もうどうしようも出来なくなって、己の心の中の、怪物のように恐ろしい飢えと渇きを、ぼんやり眺めているしかなくなった。
老人は、自分の心に中に巣食った怪物に、逆に飲み込まれて、取って代わられることに恐怖し、常に監視の目を怠らないようになった。
怪物は、外の世界からなにかの刺激を受けて、それを自分が欲しいものだと、自分に足りないものだと感じ取ると、狂犬のように、暴れ回った。
老人は、もはや自分の心の言う通りなるのは疲れきって、それを見つめている以外何も出来ず、放っておいた。
飼い主である老人が、自分の言うことを聞いてくれないとなると、激しい感情と共に、襲いかかって、来た。
その焼き付くような牙(やいば)は、かなり鋭いもので、初めは老人の心の中に傷を残していくと思われたが、怪物は暴れ散らして疲れると、以外にもすぐに活動を辞めてしまった。
そういう事が、何回も繰り返されて、自分は飼い主に全く無視されている、ということに気づいた怪物は、力を持って暴れるのが、馬鹿らしく感じたのか、次第に大人しくなった。
老人も、それを眺めているうちに、すっかり慣れてしまって、今では怪物が動き出しそうになっても、それは檻の向こうの猛獣が、激しさに身を任せているだけで、自分はそれを安全なところから見ている観客のようなものだ、と感じるようになった。
ほんの前までは、その檻に囲まれているのが見えず、渦のような勢いの怪物の気を紛らわせて、自分の身が狙われないように、浅ましく、色んなものに手を出していたというのに。
そのごく小さな穴の形を埋めてくれるものを、血眼になって探していた時期もあったが、なんてことは無い。
それは、己自身の心に問うことで、見つかった。
老人は、己の中の怪物と、それが巻き起こす感情かは、完全に決別した。
気づくと、心の中の渦は、穏やかな波にようになって、その静寂を優しい瞳で見つめているようになった。
老人は、初めて完全に満たされるという事を経験した。
それは、外の世界には全く無いもので、有るとしても物質や欲の心からもたらされる気持ちは一時的な、阿片中毒のようなものだ。
それは、全てを傍観し、何にも干渉する事がない立場に立つことで、初めて見つかった。
そこから眺める世界は、逆に世界の何事も、自分に干渉出来るものはなく、広々として心地良いものだった。
老人は、また銀杯を傾けて、月をその中に映し出した。
月を溶かしこんだ銀酒は、世界のどこにも見つからない、老人一人のためだけの味だった。
老人は、真実何もかにも、必要なく、その一瞬一瞬だけが満たされた心を、安置できる居場所であった。
老人は、瓶の残りが完全になくなるまで、酒を注ぐのをやめなかった。

 

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