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心象風景

「感情敷箱庭」

この庭は、喜びの色鮮やかな鳥が飛び交う密林、
煮えたぎるような、真っ赤な怒りが吹き出す火山、
さめざめと、土砂降りの青黒い嘆きが降る泉、
そしてその水の中の、穏やかな色の蓮華の葉に、透明玉髄のような雫一つ。
今日もどこかで、独り寂しく、泣く子がいる、その涙は泉に落ちさえすれば、ほかに嘆く皆もいると泣く子が安心する。
一番良いのは優しく包み込む陽の光で、すべての雫が満足したように、渇き上がること、しかし時に陽の光の優しさは、他に押し付けるように激しい時がある、涙の雫が自然と無くなるように照らすのと、嘆くことを許さないように光をぶつけるのは全くもって違う、だが、ここの箱庭の様子を見るものなど、誰ひとりといない。

「何処かの話」

孤独の水辺を歩むもの、誰も知らない、森の中。
池の淵を歩む者、それは誰かの涙で出来ている池の水、自身の涙に溺れたものは、人知れずその水底に落ちてしまう。
もがけばもがく程、苦しくなって、どうしても、どうやっても水面に上がれそうにない、足に濡れ髪のようなおどろおどろしい水草が絡まって、引きずり込まれるようだ。
ずうっと水の中にいると、そのうち水中の息苦しさが心地よくなってくる、まるで水温が温い羊水になったかのような錯覚に陥る。
そうすると、もう手が付けられない、体中に水が染み込んで、体がどんどん重くなる、ゆっくりゆっくり下に沈んでいって、大きな人形のような石になってしまう、瞼も開かず、地の底へ。

あの池から上がってこれた者はいない。



「回帰幻想」

ようやく魂が肉体から離れて自由になったのに、死んだあとにあんな、暗くて汚い、狭くて寂しい墓の下に入るなんて考えただけでもぞっとする。
肝心な抜け殻の方は、ぞんざいに扱われる。人によっては、生まれた土地に一族と供に眠りたいと望む人もいるだろうが、私はこう思っている。
どうせ躯が腐ってなくなるなら、なにか美しいものの一部になりたい、自分の灰を燃やして作った宝石を、愛する人に預けてもいいし、海に撒いてもらって綺麗な珊瑚礁の糧になったら、色とりどりの大海という大空を泳ぐ、小鳥の一種のような、小魚たちを眺められるかもしれない。
でもどうせなるなら、密かに人目から隠された竹林に住む極彩色をその身に宿す、崇高なる獣に食われて血の一滴、肉の一片、毛皮の一本にでもなれたらもう云うことはない。
彼らはとても美しい、元々神と大地から美しく生まれつくように祝福されて、産み落とされるのだ。人間がいくら着飾ろうと、彼らの正直に陽の光を返す体毛の美しさには叶わない。
人間があれよこれよと、まだ先の未来のことに憂いまみれなのに対して、彼らはその時その時一瞬に全力をかけて生きる。なんと潔く、気持ちと心地の良い生き様だろう。 
だから、早く迎えに来ておくれ、虎の身に鷹の形の羽を持ち、孔雀の翠を勇猛な翼に吸い取った獣よ、いつもうつつの境に会いに来てくれる枕辺の君よ。
私がもし、それが叶わないほどの、それを願ったりする資格が無いほどの、矮小で愚鈍な人間だったら、せめてあなた様の手でこの卑小なる生を終わらせて欲しい。
あなたの白銀に輝く、りっぱな湾曲した鉤爪でこの身を引き裂いておくれ、そうすれば熱く真っ赤な飛沫が吹き上げて、私の命がはじけ飛ぶ、剥き身柘榴のようにぱっくり割れた血肉と骨の残骸からは、もう無念も残らない、何より私が一番美しいと思うあなたに葬られるのだから、この上ない、願ってもない幸福だ、そうすることで私は、ようやく許されるような気がするのだ

「天翔」

生まれ変われるのだとしたら、次の生は獣がいい。野山を駆けるただ一匹の獣に。草を優しく食む鹿でも、獲物を己の爪と牙で捕らえる狼でも、どこまでも遠く続く野山を走れるのなら、何だっていい。脚に土の匂いを纏い、木々の枝を揺らす風と共に、疲れなど知らないように、息が切れることなど、最初からないような四肢と躰で、どこまでもどこまでもかけてゆくのだ。なんと心地がいいのだろう。これ以上幸せなことなどありはしない。







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