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とある宮廷詩吟師の嘆き、もしくはその一生。

とある国の、どこかの話。
なにかわたしを楽しませるようなことを、話しなさい。目の前の氷の眼差しを持つ姫君は静かにそう言い放った。

異国の魔女に呪いをかけられて、生まれてから一度も笑ったことがない、と噂されている冷ややかな、凍った冬の朝日の美しさを持つ姫君。
まさに噂が正しいように、頬の肉は盛り上がるのを知らないようで、静かな顔は水面に張り付いた薄氷の仮面のようだ。
困り果てた王様は、都で一番の詩吟師(しぎんし)を宮殿に呼び込んだ。
それは哀れな娘の心から笑った顔が見たい、という切実な親心からか、はたまた変な噂が流されることによって、王族としてふさわしくないと民に誹られたくない、国の威信を守ろうとする統治者としての威厳からか。
詩吟師は、もっぱら詩を吟じる以外はできぬ男だった。見た目もその他の能力も凡俗だったが、人に言わせると、詩(うた)を歌う時だけは周囲の花々も聞き惚れて、余計に咲き乱れるようなすばらしさ、だとか。
生まれた時に産声を上げるより先に、母に祝福の詩(うた)を贈ったとも噂される。
はてさて、そんな詩吟にしか興味がなく、他に自身の人生を賭けられる物も見つからない程の男が、王直々に呼ばれたとなると、それはもう可笑しいくらいに舞い上がった。
「ようやく私の技量が国一番だと認められたのだ、おい店主、未来の大臣に祝杯をあげてくれ。
なに?タダでしてくれてもいいだろう、私は近い将来、宮廷中の行事を一手に仕切る者になるんだ、そこで、出される嗜み酒を全部この店のものにしてやってもいい。宮廷中がお前の酒に舌鼓を打って、もうこれ以上ない程のお得意様になるんだぞ?媚は売っておくものだ。その時までもっと酒造の腕前を上げろよ。この味のままだときっと優雅で華美を好む方々の可憐な舌には、幹肌に生える苔のように渋すぎるだろうから、まあ覚えていたらだがね!」

数日後、宮廷に呼ばれた男は王と謁見した。男はどこぞの国からの賓客でも使者でもないので、謁見の間では無く、王や妃たちが食事をする私的な部屋に案内された。それでもどの都中の家も、このただの食事する為だけの部屋には勝てないだろうと思われた。部屋中が金の装飾に施され、部屋の四方の隅には木に止まる小鳥をあしらった柱、しかもそれぞれが四つの季節の恵みと、それを享受する喜びに満ちた顔の小鳥達になっており、花や果実は見事な宝石細工で出来ていた。落ちついた紅色の絨毯は、踏む度に足裏に心地よく沈む。
天井には、有名な教会画を描いた画家の絵が神と家と変わらず、神聖な姿のまま描かれていた。手から食べ物を出して、貧しい民達に分け与える聖人と、豊穣を意味する聖母と天使の絵が描かれていたので、男は王や妃が、舌が喜ぶような食事に手をつけようとする度に、この天井の絵に対して祈りを捧げているのだろうか、とぼんやり考えていた。
だが、一番男の目を引いたのは、異常なくらいに煌びやかな調度品ではなく、おそらく、一番奥に王が座って食事をするのであろう、これまた異常なくらいに長くて、豪華なテーブルの上にかけてある、真っ白なテーブルクロスだった。
目に痛いほどの品物達の中にあるには、違和感を放つどころか、高級な銀食器や金の縁取り模様の食器をあえて際立たせていた。一見、地味だがかなり質の良い物であろうそれには、不自然なシミができていた。
出来て時間が立っているのだろうが、色からして、恐らく葡萄酒か何かだろう。
男はごく自然な流れで、怪訝に思った。なぜ王様ともあろう御方の、これ程までに完璧な御膳の中の何故、たったひとつだけが乱されているのであろう、これでは台無しではないか。
詩(うた)だって、たった一つの音が飛んだり、似合わない一節が入るだけで、素晴らしかった曲がらもう目も当てられない悲惨な醜い音となる。
男はこういったことが耐えられない性格(たち)だった。何か一つのもののせいで、全体の素晴らしい統一感が乱されるのを大変嫌う。美や創作の中だけの完璧主義なのだ。
男がある一点を見つめているような、睨みつけているようなことに気づいた王は、すぐにその視線に先にある物も分かった。すぐに侍従長を呼びつける。
「申し訳ない、掃除の目が行き届いてなかった様で」
王はその位に相応しい程、もしくは似つかわしくない程、人の出来た人間だった。
国の最高位についていようと、自分の何かしらが原因で、人の気持ちを乱したとしたら、下々の者達に対して謝罪の言葉を口にするのを厭わない。
さすがに、王冠が乗が乗り国を支えるための重すぎる頭を、下げることはしなかったけれども。
「とんでも御座いません。私は少しばかり神経質な所がございまして、ついでに言いますと、このお城にご厄介になる間に、色々と部屋の内装や食事について注文をつけることがあるでしょうが、どうか美しい音を生み出す者の持病とご容赦下さいませ。」
「いやいや、かつてこの城に来た者達もそのような事を言いつける者が多かったよ、姫を笑顔にする為なら、私はあなたが住み良いようにいくらでも、なんでもしてくれて構わない。」
「私以外にも詩吟師がいらっしゃったのですか?」
「ああ、いや他にも画家や猛獣使いや奇術師のようなものも呼んだのだがね、・・・皆(みな)、姫を笑わせるどころか口の端を持ち上げる事さえできなかったよ。」
男は少しの沈黙の後に、王が口にした言葉が嫌に気になった。思った以上に相手は手強そうである。
そんなに頑なに、笑うという事をしたくないのであろうか。
「そうそう、お主にはこの広い城の中の案内が必要だな、忘れるところであった。まず、口頭で大まかに説明するので、あとはこの侍従について周りながら細かい場所の事を聞いて頂きたい。」
男の耳には王の厳かな低い声が響いていた。けれども、その間にも、何故かあの乾いた紫色の滲みが目の網膜に張り付いて、それが脳髄の中に伝わったように頭の中から離れなかった。

「こちらが姫様のお屋敷となります。」
白く短い口髭を生やした侍従長が、ごく簡単な口ぶりでそう言った。
男が案内されたのは、城の中にあるはずの姫の部屋ではなく、冷たい空気を漂わせた、灰色の石で出来た床と壁で覆われた別棟であった。
石壁には、半分枯れたような蔦植物が、命乞いをする様に情けなく蔓延っている。
雰囲気はまるで墓場の様だった。もっと言うと死神の住処と言われた方がしっくりくるような有様だ。
男は、なるほど、件の姫は隔離されているのだ。と思った。もしかしたら、不治の悩ましい病か、それとも周りのものから何かが原因で疎まれているのか、と勘繰った。王家のややこしい家系図の紙の中で、あぶり出しのインクで出生を描かれた子は、腹違い、濃すぎる血から生まれた忌み子、など炙れば沢山出てくるのだろう。男は心の中でまだ会ったこともない姫君に対して、哀れみの情を向けていた。
冷たい水の中で死んだような石でできた壁に、囲まれた大扉が、大きく古く軋む音を立てて、建物の内部に大袈裟な動きで開く。その中には、氷の煉瓦でてきたような、不気味な程、白い部屋があった。その先にも、向こうが見渡せないほどの長い廊下があって、まるで霧によって先が見えない、彼岸へと通じる道のような雰囲気を漂わせていた。
詩吟師は黙って、侍従長の後に続いて行く。
なにか、ちょうど良さそうな話題を見つけて、会話に花を咲かそうとしたが、まるで辺りが極寒の雪原ように感じられて、口を開けるのを戸惑った。
仮に、詩吟師が何でもいいから、話題を口に出していたとしても、その花はこの冷たく突き刺さる空気の中では、直ぐに枯れ果ててしまうだろう。
色も魂もないような部屋に通された男は、異形が住む館に迷い込んだような、心地だった。
どこもかしこも、生き物の生気が感じられない。
人の住む建物が、留守の時があっても、その家に住んでいる人の気配と生活感で家という体裁を保てる。そのような営みの気配が、その部屋には全くと言っていいほど無かった。
影の魔物の住処のように、家具も敷物も、辛うじてその姿を保っているようで、見ている方からすれば、テーブルに置かれた水差しと器でさえも、絵画の向こうのもののように、現実にあるものとして、存在感を放っていない。
けれども、鼠の足跡を残せる程にも、埃は積み上がっていない。
男には感じとれなくとも、やはり掃除や整理整頓をこなす役目の人間はいるのだろうか。
だとしても、こんな全ての時が止まった所に、姫が一人で住んでいるのだろうか。
まるで、本当に大罪を犯した手に負えない囚人を、一時的にでも隔離しているような空間である。
人気(ひとけ)に代わり、外で感じた同じ思いが、濃い空気のように辺りに充満していた。
必要最低限のものしか与えられていないのだろうか、それとも姫が望んでこのような状態で暮らすのを、良しとしているのだろうか。
「こちらで、御座います。」
白い部屋の先の、果てしなく長い廊下を歩かせられた詩吟師は、ようやく、姫君の部屋の前までやって来た。姫の部屋の扉は、さすがに外の大扉よりは、小さいけれども、どこか入ってくる物を茨の棘で拒むような、怒れる鷲のように威嚇しているように感じられた。詩吟師は、この先に度し難い古の龍がいるように感じられて、思わず生唾を飲み込んだ。
侍従長の耳にもその音がはっきり分かっただろうけれども、それを知ってか知らずか、侍従長は冷たい光を放つ青鈍色の金具を、猛獣を檻から解き放つ時のように、出来るだけ静かに開けた。
中に鎮まって、封じられているように佇んでいたものは、感情の無い人形の姫だった。
「姫様、こちらは王様によって派遣されました。詩吟師殿でございます」
侍従がまるで、人形に対して話しているのではないかと思われる程、その言葉がきちんと届いているのが不審に思う程、姫の顔には不気味な美しさがあった。
絶対零度の中に咲く、雪の華よりぎらつく銀の目に、まわりは霜より豊かな睫毛で囲まれていた。
美しい死人の顔から作り出した仮面の上に、申し訳程度の生命の彩りと血の温かさが、筆で塗りつけられているようだ。
だから、透き通った肌に走る見事な静脈の細長い印も、どこか精巧な人形に描かれたように感じる。
美しい姫が、死を司る存在に体を奪われ、魂魄をも吸われ、自分に成り代わわれたといえば一番伝わりやすいだろうか。
たおやかな長い髪も、風に素直に靡にそうにない。
全身が、この世の理の範疇から外れ、それを頑なに拒絶しているような風体であった。
「ご苦労、侍従長。お客人も父上の我儘に付き合ってもらって、申し訳ない」
謝る気などさらさらないどころか、温度も感じられないその一言を投げかけられた侍従長は、自分の心臓を、冷たい手で一撫でされて、蹂躙されるように感じた。
洞窟に垂れ下がった氷柱石の冷たい雫がうなじに滴ったように、思わず身震いする。
男の方は、自分は投げかけられた意味と言葉が少ないのが幸運だったのだろうか、部屋の小さい穴から隙間風が吹いてくると感じる程度で済んだ。
それでも、鋭い硝子の欠片でほんの少し切られるような、冷たさを覚えた。
「姫様、卑しい身分の私(わたくし)ではこざいますが、姫様がお楽しみくださるように、冬支度をする栗鼠のように……身を粉にして、誠心誠意、少しでも心に暖かい気持ちを思い起こさせますようしていく所存で御座います。」
男は最初、ここから自分の仕事が始まるのだ、と思い、けれども王族を前にした緊張からか、いつもの様に矢継ぎ早に、飾り言葉が出てこなかった。
むしろ飾りっけのない言葉のほうが真心が伝わると思って、方針を変更をしたが、そのせいでぎくしゃくとした文章になったことが、恥ずかしかった。
「ふ……、冬の真っ只中の栗鼠も、己が埋めた木の実の場所を忘れて、飢えて凍え死にすると言うが、そのようにならないように祈ろう」
姫の何も見いだせないような言葉に、男は一瞬、さっきの挨拶で実力不足だと勘ぐられたのではないかと思ったが、黙って頭を低くするしかなかった。
翌日から、男は姫の前で詩吟を始めた。
最初は、どの地方の子供でも喜んで聞きたがる、勧善懲悪で、最後には愛と正義が勝つ群像活劇。
初砲は、不発に終わった。
手当り次第、分かりやすいものから始めたのだから、外れて当たり前だ、と気持ちを切り替え、
鳥が助けた女の子に恩返しをするうた、を歌った。
それも、聞いているのかいないのか分からない態度のまま、氷の彫像のように佇んでいられたので、男は一人で歌っている自分がいたたまれなくなって、次第に声が小さくなり、やめてしまった。
続いて鹿水の占いの話、これは水鹿(スイロク)と呼ばれる普通の鹿より水辺を好み、大量に水分を摂取する鹿に、清水のように透き通った酒を飲ませ、酔っ払って、角が抜け落ちた方角を見て占うという、今では出来るものが誰もいない古くからの習わしを元にした戯曲である。
最後に金に邪心を膨らませた、偽占い師とも詐欺師とも呼ばれる男が、怒った鹿に角で尻を刺されて、大騒ぎをしながら、地の果てまで追いかけられるというシーンがある。
男はいつもの様に、仕事であるから恥ずかしがりなどしないという態度で、笑われる事を光栄に思える役を演じたが、それでも姫の顔は壁に張り付いた家守(ヤモリ)のように、微動だにもしなかった。
目の前の姫が家守になる呪いにかかったら、すぐ近くに大きな脚高蜘蛛が現れたとしても、一向に気にせず、蜘蛛の方は天敵が作り物であるという勘違いを起こさせ、体の上を横断させるのを許すのじゃないかと思うほど。
そんな、勇気も力もある魔女が、いるとすればの話だが。この姫は、どんなに強い呪いや魔術の類であろうと、余計に濃い力で、それを何倍にでも跳ね返せるかもしれない。
姫が人間の姿形をしているだけに、得体の知れない恐怖が、羊皮紙の上のインクの汚れのように、酷く目立って、放たれる。
男は、パチンと手を打って、おどろおどろしい話なら、逆に心を動かしてくれるのではないか、の思いついた。
麟鳳という名の、牡丹の乾いた根を煎じた薬を飲まなければ、体がみるみる間に腐っていってしまう、奇病にかかった少女の話を始めた。
その有様は、神経が繊細なものならたまらず耳を覆ってしまうような病状と、美しい牡丹の花々の様子を交互に織り交ぜた話なのだが、やはりそれでも、姫の心を動かすのに、力が及ばなかった。
ならば、と。
「えぇ、こちらの話は、紀元前に遡ります……」
男は、まだ世界が混沌として秩序の欠けらも無い時代、とある栄えた竜の一族達が、星の神の怒りを買い、流星によって滅ぼされた、という話しを悲劇こもごも織り交ぜて話をした。
これは、金のない科学者の若者に、地中深くに眠っていた竜の骨は、このような経緯を辿って絶滅したのだ、という事を鼻息荒く説明されたこと運良く思い出し、それを自分が考えた手柄のように、御伽噺のように語ったのだ。
けれども、人智の及ばぬ神代の時代の風景も、氷漬けにされた姫の心の中の氷一つ、溶かすどころか、ヒビを入れる事も叶わなかったようだ。
「そちらの手駒は全て外れたようだな、ならば趣向を変えよう」
ため息を我慢しきれずに漏らした男を、なんとも思っていない口調で、姫は手を鳴らした。
了解したふうな侍女がどこかへ消えたと思うと、男は塔の外へと案内されて、そこで待つように支持された。
しばらくすると侍女は、左手に手綱を持ち、神経質な女のような、落ち着かない素振りをしている馬を引き連れてきた。
それと同時に、姫が軽装でやって来て、何か緑色の小さいものを、男に見せた。
「これは東洋の国の珠飾りらしい、外交が盛んな異国から、贈り物として受け取ったものを、私が普通に笑える様に、感情を取り戻せるようになるためのお守りだ、と父上が誕生日に渡してくれた。東の見たこともない国では、これが赤子の頃に贈られて、その後一生の不運から守ってくれるらしい。だがこんな物、私にとってはただの見た目が綺麗な飾りにすぎない。父上の過保護な愛情ゆえの送られた品物などもう目にしたくなどない。だからこの飾り玉を馬の尻尾に通しなさい。」
そうして姫はまた普段どおりに、近くの侍従に言いつけるのと変わらない口調と態度で、男にそう言い放った。
詩吟師は言われた通りにするしかない。馬の後ろ足がこちらに飛んでこないことを一心に祈りながら、ゆっくりゆっくり翡翠の珠でできた異民族の飾りを、馬のすが糸のような尾に通す。
途中不機嫌な馬が少しだけ身震した。詩吟師はもういてもたってもいられず、逃げ出したい衝動に駆られる。
しかしそれは姫が許さない。まるでこちらを射るように見つめられると、詩吟師も凍りついたように動けなくなる。もうこうなると、ただただ姫の命令を忠実に守る操り人形の下僕(しもべ)だ。
何事もなく玉を通し終わると、やっと安堵の息をつく。かなり長い時間息を止めていたときのように、鼻から大量の空気が入って、肺をまわり体中の血を循環させる。
その衝撃で詩吟師のあたまはくらくらとした。
だが、ようやく安心したのも束の間。
「今度は逃げる馬を追って、その玉を綺麗に抜き取れ、馬の尻尾が何本抜けようと構わん。」
姫は冷たく言い放つ、ああ、無情とはまさにこのこと、姫はもう人間の情を持ち合わせていない。
そんなの、そんなのあんまりだ、何が馬の尻毛が何本だろうと構わないだ、怪我するのはこっちぢゃないか-
そう思っても詩吟師は口に出せない。完全に姫の長い爪が生えた艶かしい手で、己の肝を潰されている。
すでに姫の不気味なほど白い手のひらの上 で、くるくるひらひら踊らされている。
詩吟師は操り人形のように、ふらふら心もとなげに馬へと近づいた。後ろに不心得ものが来たと気づいた馬は、即座に身を翻して、詩吟師を警戒しながら逃げ回る。
馬がどこへ行こうと、もう詩吟師は、姫の命令を忠実にこなそうとする駒でしかない。何とかして四足の大きな獣の背後を取ろうとする。
馬は神経質に嘶きながら、常に詩吟師に目をやって、哀れな男の手の届かないところに逃げようとする。
そうやって、何度か鬼ごっこを続けていると、ようやく馬が自分から庭作の囲いの隅に入り込んで、その後ろから詩吟師が、逃すまいとじりじり追い詰める。
馬は神妙に、にわかに嘶くのをやめて大人しくなった。これ幸いとして詩吟師は勢いよく長い白毛の中の翠の玉を掴む、がその時、王宮の美しい庭に似つかわしくない、にぶい音が響いた。
詩吟師は、目の前が一瞬、真っ暗になり、鼻の上あたりを金槌でひどく殴られたような痛みが襲った。
馬は、おとなしく尻尾を握らせると見せかけて、邪魔者を間違いなくやってしまえるよう罠に嵌めたのだ。
嗚呼、馬の稚拙で姑息な企みにも気づかない、もう頭が働くことも許されない、この哀れな男を、一体誰が救ってくれるというのか?
鼻から血がだらだら流れ、目の焦点も合わず目玉が虚ろに動くだけ、なんとか起き上がろうとするとひどい吐き気にも襲われる。
それでも苦労して立ち上がると、指に丸く硬いものの感触がある。
目をやると、手にしっかりと包み込むようにして、翡翠の飾り玉があった。手の中の宝の玉は、姫が予告したとおり、何本か尻尾の毛が通し穴に入り込んでいた。
そして、同時に自分自身でも驚くくらいの力で、必死になって握っていることに気づいた。
「なんだ、生きているじゃないか。」
姫が残念そうに発した言葉は、姫にとってはただ目の前の事実だが、詩吟師にとっては絶望が渦巻いている心の中からこぼれ落ちた気持ちだった。
男はもう限界だった。己の体が傷つけられるのと同じに、己の矜持を理不尽に痛めつけられ、嬲られているように感じた。
姫の足元にすがるようになだれ込み、身を縮こまらせて許しを請うように呟く。
「ああ、もうわたくしめはどうなってもかまいません。これ以上あなた様の前に醜態を晒すことは耐えられません。どうか、その白柳のような美しい手で、一息にわたくしを……」
詩吟師は自身の言葉を言い終わらないうちに、その声に無様な嗚咽が混じる。その声を聴けば、この男が少し前は小鳥がさえずるような、川のせせらぎのような、心に軽やかな声で、歌い回っていたなどと誰も信じないだろう。
そうか、姫君の満足気な声が響く。
ようやく、待ちかねた答えを待っていたように、ふくよかな唇の端を歪に曲げる。
「思えば、お前も気の毒な男だな。」
その微笑は人々を堕落させて、悪業にはしらせる邪な悪鬼も惚れ込むようだ。
侍女にあれをここに、と命ずると、静かに哀れな男の前に寄る。軽装といえども、希少種の蚕が吐き出した絹性の裾の長いドレスが、足の動きの一切を隠してしまうので、するすると音もなく近づくそのさまは、まさに白き死神。
侍女が、駱駝とそれにまたがる商隊が、緑豊かな砂漠の泉で憩う様が銀細工によって見事に描写されている細長い箱を持って、姫君の足元に膝まずく、姫はにたり、と顔を歪ませると厳かな手つきで、もったいぶるように箱を開けた。
円が湾曲した三日月のような形の刃。砂漠の民が大昔から愛用している偃月刀。そのすらりとした、瑞々しくも見える刀身を月光のもとに光らせて、姫は舐めまわすように見つめる。
そうして、満足したように今度は詩吟師に目を向けると、ついに男の頭上高くから、なんの遠慮も見せず、人が無意識に手を挙げるようにただただ自然に、無慈悲に振り下ろした。
詩吟師であった男の血液が、貧民の麦一粒、砂金粒一つより高値の絹のドレスに、仇を見つけた復讐者のように、遠慮なしに飛びかかる。姫はそれに対して、嫌な顔をして残念がるどころか、しなる弦を鳴らす三日月のように、眼で弧を描いた。
その日、ようやく久しぶりに、王宮に姫君の嬉しそうな高笑いが響いた。
その声を別棟の煌びやかな自身の部屋で聞いていた王様は、ああ、あの者も駄目だったのか、とひとり静かに項垂れて、晩酌の葡萄酒の入った玻璃と金装飾の器を、知らず知らずのうちに傾けてしまっていた。
またしても真白いテーブルクロスに、新たな紫色の染みが出来た。
それは、今血飛沫に当てられた姫君のドレスとおなじ絹性だった。
慌てて王様は、近くの侍従にすまない、早く洗っておくれ、と告げる。
明日になれば、姫のいたるところの赤い飛沫も、このテーブルクロスのように綺麗さっぱり清められて、全てなかったことにされる。
王様が不意に窓の外の景色に目をやると、嫌でも不気味な装飾がされている陰鬱な雰囲気を纏う大扉が目に入る。
残虐な姫のもとに行ける唯一の道である、王宮の中庭に通ずる大扉は、さながら大口を開けて罪人を待ちわびる地獄の門のようだった。


そしてその門は、また、別の犠牲者を待ち続ける。


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