見出し画像

禽帝(とりみかど)

この世の全ての色を溶かしきったような、広く美しい牡丹畑の真ん中に、一羽の白い孔雀がいる。
白孔雀は、優雅な動きで脚を動かし、鋭い爪先を揃えて牡丹畑を歩き回る。
足の鱗に、陽の光が当たる度に、なめした革のような輝きが、牡丹畑の中を動いていく。
白孔雀は、明るい土の上に落ちている、花びらを見つけると、三日月の子供のような嘴でそろりと捉え、自身の羽の中に大切にしまい込む。
白銀の綿が降り積もった台地の体に、雪割草の花のようにぽつりと、桃色の模様が咲いた。
花びらに纒わりついていた微かな芳香が、鼻の奥で優しい土の匂いと混ざり、獣にはなんともいえない極上の練り香のような香りが、妖精の小さい羽音のように、絹織物のように、ふんわりと舞った。
白孔雀は、今度は牡丹畑の端にある南天の木へと向かった。
本当は、南天が実る頃には、牡丹は枯れ果てているのだけれど、そんな事を疑問に思う野暮な者は、この牡丹畑には近寄れもしない。
ここは、人の世の決まりも、季節の条理も何もかも、覆す場所なのだ。
ただ、ただ、美しさが溢れている場所なのだ。
南天の実を幾つか咥えた白孔雀は、横の金木犀の木の枝を見上げた。
ちょうど鴉が、一日限りの可憐な橙色の花を、横着な嘴で弄んでいた所だった。
鴉は白孔雀をみとめると、何も言わずにそばに近寄り、小さな三日月から、真っ黒な裂け目のような自身の嘴へ、南天の実を受け取ると、白孔雀の頭の少し上に伸びている金木犀の枝へと飛び移った。
白孔雀は、頭上に鴉がやって来たことをみとめると、花嫁がヴェールを捲られる時のように、静かに、厳かに目を閉じ頭を下げた。
鴉は、白孔雀の雪の細かい結晶のように清らかに照り返す頭に、真っ赤な珊瑚を珠に連ねたような南天の実を、次々と、だが、慎重に刺して行った。
南天の小さな枝は、眩く白い羽毛と糊付けされたようにぴったりとくっついた。けれども白孔雀の頭には、その実以外の赤く滴るものは見られない。
鴉は、全ての南天の実を白孔雀の頭に献上したのをみとめると、夜空を覆う色の羽根で、金木犀の周りのとても甘い空気を、白孔雀の身に、御香のように纏わせようというように、ゆっくりゆっくりと、送り出した。
白孔雀は馨しい橙色の小さな花の香をしばらくの間楽しむと、下げた時と同じように、ゆっくりと頭を上げ、また、牡丹畑へと戻ろうとした。
白孔雀は金木犀の枝の間を見渡したが、ひと仕事終えた鴉の姿は、もう見えなかった。
牡丹畑に戻った白孔雀は、黒い滑らかな色の牡丹の上に透明な雫を見つけた。
そこで、白孔雀は、なんだかもう少し、鴉の瞳を見つめておけば良かったような気がした。
花の香りは一段と濃くなった。
白孔雀は、目蓋と瞬膜をぱちぱちさせ、ぼんやり遠くを見つめてから、頭を綿雪の羽毛の中に押し込んだ。そうして、深い眠りの底に落ちていった。
眠りから褪めた白孔雀が、蕩けた瞳で最初に見つけたのは、近くに横になっている金獅子だった。
金獅子は、体中に金色の苔がびっしり生えた、神獣の像ような立派な見た目をしていた。
それに、丸い耳に蝶や蜻蛉がちょっかいをだしていってるのを、気にもしないでいた。
人は、獅子が牡丹の下で眠るのは、毛並みの下に住み着いている体を食い荒らす虫が、牡丹から落ちる雫でしか死なないからだ、と思っているらしいが、本当のところはそんなもの誰も知らなかった。
だってこの牡丹畑の中に、そんな気持ちを起こす虫がいるのだろうか、虱(しらみ)でさえも、この香りの中で微睡めば、たちまち蜉蝣(かげろう)にでもなってしまうだろう。
ここはそういう場所、心地いい事この上なく、何にでもなれる場所。
金獅子は、彫り物の宝石のような、切り裂くような眼をぱっと開いた。
目の前の、白孔雀の眩い黒真珠の瞳と目が合った。
だが、どちらもどきりとした様子もしないで、白孔雀は金獅子が大きな欠伸をしている様子をじっと眺めた。
金獅子は、牡丹の花の間を飛び交い、遊びあっている蝶や蜻蛉の様子をぼんやり眺めているようだった。
蝶のきらきらした鱗粉や、蜻蛉の尾の鋭い槍が鼻先を掠めていくと、くしゃみを何回か盛大にした。
虫たちを眺めているのも飽きたのか、ゆっくり白孔雀の方に向き直った金獅子は、そちらに行ってもいいかと、お伺いを立てるように、ふんふんと鼻を優しく、低く鳴らした。
白孔雀が何も言わずに、じっとしているのを、構わない、と受け取ったのか、のそり、のそり、と王者の動きで近寄ってきた。
白孔雀の後ろに回った金獅子は、白孔雀の首の後ろの匂いを嗅いだ。
白孔雀が恥ずかしそうに、少しだけたじろぐと、鼻を遠ざけて、白孔雀の後ろで、横になった。
白孔雀は、大きく蝉の羽の様に薄い、扇子のような尾羽を金獅子の重い体から引っ張り出すと、しゃらりと鳴るような動きで金獅子の体にかけてやった。
金獅子は、一回だけ白孔雀の尾羽に鼻先を向け、それからすうすうと寝息を漏らした。
白孔雀も眠る事にした。牡丹畑に二匹の獣の寝息が静かに聞こえた。
牡丹の香りが一層濃くなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?