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カッサンドラの竜

カッサンドラとは、古い言葉で不吉という意味でした。誰が名付けたのか、何も目的が無く、ただひたすら目に見えるもの全てに向かって火を吐いて、無闇矢鱈と破壊して進む竜を見て、そのような名付けをする事は、無理もないことでしょう。

カッサンドラの竜は、この世に生まれ落ちた時から怒りしか知りませんでした。
途方もない大きさの卵の殻を割った時に見えたのは、母親の顔ではなく果てしなく続く、この世界の果てでした。
生まれた時に、何か悲しいことがあったわけでもありません。成長していく中で、怒りに身を震わせるような出来事があったわけでもありません。
ただ、その竜の雛が生まれ落ちた時に、唯一その身に宿していた思いが、それだけでした。
カッサンドラの竜は、なぜ自分がそのように生まれついたのか、知りませんでしたし、知ろうともしませんでした。
そもそも、カッサンドラの竜に自分というものが知りえていたのも謎でした。
カッサンドラの竜は、ただただ怒りそのものでした。
カッサンドラの竜のお腹の中は、煮えたぎった溶岩のようでした。
丸い目玉は、水晶玉が罪人百人分の血を吸い上げて、禍々しいルビィになってしまったような色をしていました。
血潮は溶けた鉄のように熱く蕩け、鱗は戦場に取り残された鎧を百個でも千個でも掻き集めて作ったようにおぞましい見た目でした。
とにかく、一枚として同じ形の鱗はなく、生き物としてあるまじき姿でした。

カッサンドラという言葉も、いつしかその竜が暴れ狂って動き回っている辺りの山一帯も意味するようになりました。
そうして、いつの間にかカッサンドラは、人々の噂の中で魔界の軍団長であるとか、世の中を呪いながら死んだもの達の成れの果てだとか、火の女神の狂った下僕竜であるとか、口に出すのも恐ろしい者達の末席に名を連ねるものであるとか、力のある精霊王の宝を盗んで、忌まわしい姿になる罰を受けたものだとか、地獄の罪人の霊魂を胃で溶かして永遠の苦しみを与える魔物であるとか、好き放題に言われ始めるようになりました。
しかし、本当のところはカッサンドラは生まれてから一度もカッサンドラでしかなく、おそらく死ぬまでその事実は変わらないでしょう。
人々が口々に名前を勝手に付けて、畏れおおのいた分だけ、カッサンドラは新たに力を得るのでした。
けれども、カッサンドラはそんなことに少しも興味を持ちませんでした。
そもそも、それを知り得たかも謎です。
カッサンドラは、ただひたすらに目につくもの全て焼き払う、竜の形をした鉄の機械のようでした。
まるで、神からこの世の全てを焼き払うように命じられ、手始めに自分の感情も思考も焼き払ってしまったかのような生き物でした。

カッサンドラは、ただひたすらに目につくもの全て破壊して廻るのです。

ある時、カッサンドラの棲の山から一番近い街に、怪しい旅人が寄りかかりました。
布で顔を隠して、素性の全くわからない旅人は、意味がわからないほど暴れまわる竜に恐怖する人々に、こういいました。
「あの竜には、体の一部分だけ大輪の花のように鱗が揃い生えている場所があるのです。その部分の中心の一枚の鱗を、あの竜の体から取り上げるだけで、それだけであの竜を底知れない怒りの中から、すくい上げることができます。」
旅人の喋り方は、田舎特有の訛りも無く、王都に住んでいる特別な人のように、極淡々とした喋り方で、 発音の混じり気もなく、真珠玉を転がした綺麗な声でした。
けれども、皆何故あの竜の泣き所を知っているのか、というのにばかり気を取られて、この旅人が一体何者なのか、知ろうとするものは一人もいませんでした。
それほどまでに、人々はカッサンドラに辟易していたのです。
旅人は続けます。
「皆さん、一体どうやってあの恐ろしい竜から鱗を一枚剥ぎ取るというのだ、とお考えでしょうが、あの破壊しか知らない竜が一度だけ眠りこける時があるのです」
大勢の人は、旅人の一言一句を聞き逃さないように、猫のように聞き耳を立てました。
「真っ暗な月蝕の夜だけは、あの竜の目にも何も映らなくなり、務めを果たしたと勘違いした竜は、再び月の光が覗いてくるまで、瞼を堅く閉じるのです」
旅人の話を聞いて、これでやっとあの竜を大人しくできる、と喜ぶ人は半分でした。
あとの半分は、未だに不安な顔で、どよめきあっていました。その中の一人が、意を決して旅人に聞きました。
「ええ、そうです。あの竜は、目につくもの全て焼き払うのです。つまりは、目に何も映らないようになったその時、この世の全てを破壊しつくしたときに、長い眠りにつくのです。」
旅人のその言葉は、一月後の月蝕の日を逃せば、もう二度とカッサンドラを大人しくさせる手立てはない、と言うことと同じ意味でした。

いよいよ、月蝕の日がやって来ました。飼っているのも、野良も、犬や猫は不安そうに鳴きだし、た立っている木々までもが、不気味な風に煽られて怯えているようでした。
集められた勇猛果敢な男達や、火山や、地理に詳しい学者達は、月蝕の日の前の晩から、テントを張ってカッサンドラを見張っていました。
光が全くないのに、どうやって大人しくなったカッサンドラに近づくのか、という男達の質問に、学者達はこう答えました。
「カッサンドラに近づくのに、何かの光を用いて刺激を与えれば、不意に目覚めて、一隊が危険な目に会うかもしれない。」
「カッサンドラの鼻からは常に死体を燃やしたような臭いの黒煙が漂っている。」
「それを頼りに、カッサンドラの元に赴き、再び月の光がさすまで、例の一枚の鱗を剥がしてもらいたい」
男達は一も二もなく頷きました。
もし、決められた時刻まで、一枚の鱗をその手に握られなければ、間違いなくこの男達は、全員が非業の死を遂げるでしょう。
それでも、男達は誰一人として退きませんでした。
弱音を吐くものもいませんでした。
男達の中には、幼い頃に、カッサンドラが暴れ回ったせいで親や兄弟をなくしたものもありました。

学者達の一人が、夜空に輝く満月が、少しずつ食べられて行くのを確認しました。
満月は次第に半月となり、三日月、暗い紙に描かれたほんの少しの曲線となり、ついには全く見えなくなってしまいました。
男達は、できるだけ物音を立てずに、嫌な臭いのする煙を吐き出す元凶へ、行進を始めました。
意外な事に、カッサンドラは泣き疲れた子供のように、死んだように、何をしても起きないぐらいぐっすり眠っていました。
最初は、やはりおっかなびっくりカッサンドラの体に触れていたもの達も、小声でこの場所は違う、だのこの鱗ではない、と言い合うようになりました。
一人が、「おいここじゃないのか」
と少し大きく声を張り上げました。
他の男達は、その一人の声に導かれるように、男の元へ近寄りました。
男は、他の男たちにも確認させるように、手を掴んで、カッサンドラの体の一部に触れさせました。
そこに触れたもの達は口々に、
「ああ、間違いない、ここだ。」
と言い合いました。
声をはりあげた男が、手探りで真ん中であろうと思われる鱗に触り、意を決して鱗を剥ぎ取りました。
その時、この世の終わりかと思われるような、大きい音がして、地面が揺れました。
男達は暗い中で、何が起こったのか分からず、恐怖し、狼狽えながらも、カッサンドラから蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。
四、五人の集まりになって、カッサンドラから死角になる岩場に逃げ込んだ男達は、お互いの心臓の音が聞こえるほど、驚いていました。
その男達の心臓の音が、ようやく少しばかり静かになった頃、月の光も天使の射った矢のように舞い戻って来ました。
男達の歓喜の声は、ただ一人の声にかき消されてしまいました。
その男は、あの一枚の鱗を剥ぎ取った英雄でしたが、カッサンドラがいたであろう場所を見た瞬間に、体の底から出てくるような大声を出さずにはいられなかったのです。
カッサンドラは、沢山の鱗と四本分の鉤爪、恐
悪魔のような骨だけを残して、ガラクタのようになっていました。およそ、生き物のものと思われる血も肉も、内蔵もありませんでした。
男達は、もう二度と暴れる災いのような竜の被害に合わないことを喜ぶよりも、目の前の不可思議で不気味極まりない、天地の理を無視した死骸にどうしたらいいか分からなくなり、さっさと学者達のいるテントに戻っていきました。

男達は、町で盛大に祝われました。特に、あの一枚の鱗を取った男は、神輿の上に乗せられて町中の若い娘から綺麗な花を投げかけられ、老人達からは葡萄酒をかけられ、母親からは泣きながら抱きしめられ、子供たちからは、古の英雄譚を読んだ時のような、憧れの眼差しをうけとりました。
学者達も、祝いの席に免れて、この日だけは分厚い書物から目を離し、思い思いに楽しみました。
町長は、頭の中で男達の武勲を讃え、またカッサンドラの魂を慰めようと石碑を建てる事を計画していました。
祝いの席の中で、一人だけか似つかわしくない事を考えている学者が一人いました。
「あの竜について、不思議な旅の御方は目につくもの全て焼き払うまで、死にはしないと言っていた。あの、今は亡き忌まわしいカッサンドラは、真っ暗闇で何も見えなくなる月蝕の夜でさえ、眠るだけだった。……もし、この世が終わったときでさえ、あの竜は誰かに一枚の鱗を剥ぎ取られるまで生きていて、次の新しい世界が作られた時に再び目覚め、また破壊してまわるのではなかったのだろうか」
一人の学者の、恐ろしい考えは隣で蜂蜜酒を飲んで気を良くしている同僚には、耳打ちできませんでした。
学者は、あの旅人が他にもっとなにか知っているのではないか、と旅人がどこから来たのか、旅人が泊まった宿の宿帳を、主人の許可を得て確認してみましたが、旅人が記帳したはずの場所には、それらしいものは一切ありませんでした。
主人は、狼狽えながら、そんなはずはない、俺はいつでも目の前で客に記帳をしてもらうんだ、とまくし立てましたが、学者の耳には入らず、代わりに出てきたのは深い深いため息でした。

「ふぅむ、やはり狭い書物に世界の全てが、書かれているわけではないようだ」


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