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二人花嫁の靴

土地を持たず、風が運ぶ季節と葉の薫りと供に旅する彼らは、民族間のつながりを何より大事にする。
それはまさに、彼らが神として信仰する山の獣の王(おおかみ)のように、例え自分の子供でなくとも、自分の命より優先する。
いくらひもじい思いをしようと、子が腹を空かせていれば、なけなしの貯蔵食を分け与えてやる。
早くこの子が大きくなって、仲間のために働けますように、と願いを込めて。ともすればそれを産む女も、それはそれは丁重に扱われる。民俗学を研究する者で、最初にこの遊牧民と、他の全く違う地域の部族との差異について論文を書かないものは、いないというほどだ。今でも一族間で重大な事柄は、男の中では鷹狩りに一番秀でて、知恵のある長老が、女の方では神の声を幾度も聞き、家の中を仕事を教える立場でもある占い婆が、それぞれひとりひとりの意見を聞いた上で、その二人が何度も話し合って決定を下す。決定に不服がある者がいた場合は、納得する方法や、道を探すまで周りの者も辛抱強く付き合う。限られた、見慣れた顔しかいない集団生活では、いくら遠回りしようと、結局は軋轢が少ないほうが互のためになるという事だ。
この一族の中では、婚姻の儀式の前に、未来の夫は、妻となる女に、自分で作った靴を送る。今まで親達に大事に大事に育てられ、一族の要となる女たちに愛と敬意を込めて。女たちの裁縫仕事の苦労を身を持って体験し、贈った靴で自分の隣を一緒に歩んで欲しいという、気持ちの表れだ。
もちろん普段から細々したことをやりなれない者は、何回も何回も作り直して、ようやくそれなりの形になったものを好きな女に送る。形は歪なものが多くて、とても履けない物もあるが、時間がかかった分だけ愛を純度を増すというもの。多少見た目が悪くても、幼い頃から互を知っている身としては、たくさんいる相手の中から特別に自分だけを選んでくれたという嬉しさもあるのだろう。花嫁候補のそばに跪き、靴を履くことを了承されれば、夫となったものは静かに優しく、妻の柔い足を包むように靴を履かせる。たいがいはその後、あまりの嬉しさに花嫁を自分の腕に抱き合げて歓声をあげたり、そのままくるくる喜びの舞を踊りだして、花嫁の目を回らせて少し怒られるなど。靴が真っ直ぐに歩けないほどの物の時もあるため、ちょうどいいかもしれないが。
たとえ、どんなに華美な靴であろうと、結婚の申し込みを断られた男は、昔からのあくどい性格か、家畜と財産の相続狙いとばれているか、よっぽど器量が好みでない場合である。
少しでも気の引きたい者の中には、自分の一等捧げたいものや、気持ちを表すものと一番近い体の部位の装飾品を取り外して、靴に縫い付けるものもいるほどだ。
一生食うに困らない生活をさせる、という気持ちを示したい時なんかは、腹に一番近い腰に巻いた飾り布を、そのまま靴の下地として使うこともある。

ヤンが生まれた時は冬の寒さ厳しい大雪の日で、心優しく、一族のためによく働いた母の命と引き換えに、亡くなった勇敢な父親譲りの、黒光りする髪を持って生まれた。
幼い頃から、両親の顔を見たことも、声を聞いたこともないヤンは、長老と周りの家族に助けられながら成長していった。昔からずっと、長老が狩りに繰り出すと、必ず付いて行き、その腕をめきめきと上達させた。一番の狩り上手直々に教えられたその腕は、山をひとつ超えた違う一族の耳に噂が風に乗って届くほどで、二年ほど前の他部族との宴会で、その腕を見せて欲しい、とせがまれ、
その一族の中から、一番狩りの腕が上手いものと競いあった。結果は相手の惨敗。、そいつは見栄っ張りで、狩りの最中、姑息な細工や罠を山中に仕掛けていたそうだが、それをことごとく無視して、破壊されたうえに、ヤンは灰鼠(はいねずみ)五匹と、山兎(やまうさぎ)一匹、青鴨(あおがも)二匹というこれまでにない成果を上げた。
卑怯者は悔しがって自分の天幕から出てこなくなり、余計な邪魔者がいなくなった、と途端に宴は多民族との交流のものから、ヤンの功績をたたえる祭りとなった。
どうやらそいつは、他の部族の中でも疎まれていたらしい。何も言われても本人は仏頂面で、ああ、しか言わず、不思議に思った他の部族長に嬉しくないのかと聞かれれば、そんな事はない、これで子供たちに腹いっぱい食べさせてやれるし、ようやく好きな女に渡す靴の材料も調達して、心の準備が出来た、と答えた。
もちろん翌日から、一族中でいったい誰がヤンの心を鷹のように盗んでいったのか、と噂しない者はなかったが、本人は何回も相手の名を聞かれても、相手の心を乱したくないから、といってずっと口を固く結んでいた。
ヤンは昔から必要以上のことは離さない、いわゆる寡黙な性格だった。それが両親がいなかった事の成長への表れからかはわからなかった。同じく目つきの悪さも狩りで遠くを見るために養われたものか、幼い頃から、孤児(みなしご)、といじわるな男連中に言われて慰める者が誰もいなかったことが災いしたのか、それともただ単に生まれつきなのか、誰にも判断がつかなかった。
孫のような年のヤンを、我が子同然に育てた長老だけは、あるいはそれが全て影響してしまったのかもしれない、とひっそりと考えていた。ヤンはその腕と実直な性格を買われ、一族中の男が次の世代を担う男、次代の長となるべき者と言われ期待されているといっても過言ではなかった。他の娘たちに言わせると、ヤンは目の鋭さとその気性、漆黒の髪色から、黒鋼のような人だと騒がれていた。逆に何を考えているか分からず、不気味で怖いという女もいた。

ユーシィは、子沢山の家の長男で、生まれ月は春の陽気が騒がしく、その髪色は雪解けのひだまりを待った、羊柵の材料になる木の肌にそっくりだった。
その家の家長、ユーシィの父は息子を何倍にも濃くしたような、いっつも妻の尻に敷かれているような優男。その妻はかなりの烈婦で、若い頃に暴れ馬を張り倒したという逸話も、実しやかに流れていた。
あそこは女が強い家系のなのだ、はねっかえりの妻と気弱な夫、あれじゃあいくらたっても奥さんに頭が上がりはしねえや、と揶揄されるなど、ある意味一族間では名物夫婦だった。おまけに生まれてくる子供も女ばかり、ユーシィを除くと三姉妹の後に弟が一人、そのあとに生まれたまだ三ヶ月にも満たない妹がいる。
ついでに言うと、その三姉妹も手の付けられない男勝りでこれでもかというくらい口達者。一番上の兄に三つ子の妹ができるなんて、おれはなんて幸せ者なんだろう、子宝をお恵み下さる山の女神様にきちんとお礼をしないと、と可愛がられていた時はまだ良かった。
三姉妹が自分で悪知恵が働くようになると、こちらは三人、むこうは気が優しいことをいいことに、次々とユーシィを餌食に、いろんな悪戯をするようになった。
もうどんな事されてきたか覚えきれなくなったけど、最初にされたことは覚えているよ、あいつら人が苦手だってわかりきってて、俺の靴にカエルを忍ばせたんだ。
びっくりした情けない声を、影でくすくす笑われて、思い切って大声で怒って追いかけたら、見事に逃げられた。
あいつら逃げ足も早いんだよ、そんで母ちゃんに言いつけに行ったら、男がそんなことで、べそべそ泣くんじゃないって叱られて、その時も遠くで、笑うような声が聞こえたんだ。そんでもう、ああ、こいつらには何をどうやっても勝てないって刷り込まれちゃったんだよね。今は子供じみたいたずらは少なくなってきたけど、あいつら何かと自分たちが上だといつも思ってるんだ。母ちゃんが見てないとおれに手伝いを被せて、三人でどこか花摘みにでも行こうとするしね。
このような環境で育ったユーシィに対して、彼の父親が自分のようになりませんよう、なんて淡い期待を無くすことにいくらもかからなかった。
でもそれでもおれは、一応長男だから、いつかあいつらをきちんと叱ってやろうと思ってるんだ。ほうら、お前たち、そんなことばかりしてるから罰が当たったんだぞって、その時のために嫌いな蛙が入った、もう履けない靴もちゃんととってあるんだ。いつかユーシィが、男友達に自信満々で、もうぼろ同然になった靴を見せつけながら、そう話したことがある。話した本人以外は、そんなときはまだ当分来ないだろう、下手したら一生来ないかもしれないと思っていたが、気のいい友人を悲しませないように、固く黙っているという約束をした。
そんな優男の息子も年頃になって、年上の男達に、気になっている奴がいないのか聞かれると、顔を赤くしてだんまりを決め込むようになる。見かねた男友達が、さあ観念しろ、と正直に娘の名前を教えてもらおうとすると、まだその時じゃないから、と急いで走り出して逃げることもあった。ユーシィは陽気だが、一族中の数少ない本を、余すことなく読む程の本好きで、一度考え出したことは答えが出るまで頭の中が休まらず、そのおかげでひらめいた事もなかなか馬鹿にできなかった。獲物の掛かりにくくなった罠を見れば、ここが壊れている、それにもっと改良した方がいいと、即座に伝えたし、まだ夕日に照らされた影が高い季節は、西風の吹く方向に羊を追ったほうが効率がいい、と長老に提案したこともある。一族の男は、本の虫であまり外に出ず、年相応な行動をしないユーシィを軟弱、選ぶっていると誹るものもあったが、若い娘達には話しやすく、明るい性格と髪色から憧れるものが多かった。昔気質の家庭で育てられた娘の中には男達に同調するものもいるにはいた。

ヤンとユーシィ、ふたりの中身は全くの正反対だったが、今までこれといった衝突もなく、むしろ互を尊重して歩んできたような気がする。ヤンの方が一年少し先に生まれたが、ユーシィの方が背が高く、共に並ぶと兄弟にも見える、と言うものもいた。そんなふたりに言い寄られてしまったのだから、全くソンファは幸せ者だったのだ。

ソンファは、絶世の美人と言う程でもないが、器量も気立てもよく、何よりいつも優しく微笑んでいる娘で、笑顔が可愛らしいと幼少期から周りの大人達に可愛がられていた。料理などよりは、専ら裁縫などの細々した仕事が好きで、自分から進んで針仕事を手伝うような娘だ。気晴らしを兼ねた花摘みで積んできた花達を、天幕で覆われた軒下に逆さに纏めて干して、乾燥させたものを小鍋で煮て、もしくは生のまま潰して、そ汁で染めた糸で様々な美しい刺繍をするのが好きだった。それをどうしても金が入り用な時に、都の市場へ行って売るとそこそこな金額になった。元々土地も家も無い、家畜も自分たちの食料で事足りる分しか飼育していない遊牧の民であるから、貴重な現金収入をもたらしてくれるソンファの存在は一族の者達にとっては本当に有難い存在であった。一族の中で針仕事が得意な娘や、母親は沢山いたが、 花や植物の汁で染めた糸で、刺繍をしようと考えるものはソンファ以外に誰一人も居なかった。しかし、ソンファはたまに誰もいない林の方を向いてぼんやりしていたり、誰かと話していても上の空だったり、とどこか抜けているところがあった。一族の女達の中で特に信心深い者が、ソンファがたまに遠くを見ていたり、心ここに在らず、のような時は山の女神の託宣を受け取っているからではないのか、という事を言った時がある。勿論、それは今までに誰も考えられなかった技術を発見したソンファを一番良い言葉で褒め讃えたかったのだろうが、当の本人はそのようなことを言われても、困ったような笑顔を見せるだけで、少しも嬉しそうではなかった。

ヤンは、母の形見の白い牡丹の首飾りを真心の象徴として、靴の留め具の飾りに使った。ヤンの母親は生前、いつもこの首飾りを大事そうにかけていた。一族の中では、首飾りの中の一番大きい飾りは、頭を通して首にかけると、心臓のすぐ真上にくるようになっている。心臓は心、ひいては優しさが宿る第一の場所である。ヤンは知る術がなかったが、実は、この首飾りは亡き父が母と結婚した後に、狩りで捕った一番上等な獲物の骨を細工した物で、生き血の通っていた骨から彫りだされた純白の牡丹は、いつでも枯れることなく母の胸に咲き誇っていた。きっと、いつまでも愛する妻と息子を見守るために、父親の思いが幾つにも重なった大きな花弁の中に宿っているのだろう。その立派な白い牡丹は今、真紅の靴の生地と、ヤンが狩りで捕らえた獲物たちの骨の、小さい花々に彩られて、銀色に鈍く光る留め金の葉の上に、咲いている。

ユーシィは、自分の頭の良さを相手に対する第一の愛の贈り物にしたいと考え、髪飾りの幅の広い生地をそのまま、靴に使った。この髪飾りは、いくつもの小さい生地の切れ端が縫い合わされた布できており、男でも女でも日除けや、寒い時に耳が霜焼けにならない様に、頭全体を覆えるように、頭巾も兼ねる形であった。小さな靴としての形を与えられると、まるで色とりどりの花束のようであった。頭飾りとしては、ありふれたあまり布や切れ端の寄せ集めで、普段は誰しも普通に頭に巻き付けている程度の物だが、この髪飾りの形こそ、ユーシィが思っている知恵の理想であった。何処にでもあるようなものから少しずつ知識を吸収して、暑さ寒さで苦労しないように工夫をする、そして、普段は見せびらかすような事はせず、使う時に正しく使う。ユーシィは、自分の思い描いていた頭の中の知恵を相手に示すには、この髪飾りしかないと思ったのだ。

一つの雪のように白い牡丹と、色とりどりの大輪の花束が、今ソンファの目の前で並べられている。
二人の男が、早くどちらなのかを答えてくれ、と言いたげに瞳を一人の娘の嫋やかな目に向けた。そうして、二人に言い寄られた娘の答えは・・・。
ごめんなさい、私どちらも選べないわ。
二人の男は驚きの表情を浮かべた。まるで、どちらも自分の表情が、相手の真似をしているだった。
私、自由が欲しいの、この森を抜けたらもうこんな変な掟に縛られず、生きていけるのよ。
周りで隠れていた野次馬達も、声を出せなかった。
ソンファはそれだけいうと、愛馬の白と灰が混ざった斑の馬に跨った。
二人に告白された事で、決心がついたわ。ありがとう。でもね、二人ともわたしは好きだけれど、心の底から愛せないの。私が唯一愛しているのは、自由だけなのよ。
馬上から見下ろして、娘が答えた。もう、彼女は一族の中のソンファではなく、自由を欲している一人の娘であった。娘は馬の手網を揺らして、風のようにその場から走り去って行った。皆の驚愕だけを残して、愛されていた娘はいなくなってしまった。

数年後、都の廃れた酒場で、遊牧の身から抜け出してきたという女が一人。
思い出したくもない嫌な事を、体の奥に流し込もうとするように安酒を呑んでいた。
聞いてもいないのに、周りに話始めるように、ぽつりぽつりと独り言を言っているのを拾い聞くと、どうやら婚姻まで約束していた男に騙されて、全財産を無くしてしまったらしい。
気の毒だが、ここは助けてくれる仲間が大勢いる草原ではなく、貿易で栄えた港町だ。
今、彼女が見上げているのは、草原の白く混じりけのない雲に覆われた、暖かい山吹色に輝く月ではなく、薄汚れた街の煙と蒸気に姿を隠されて、冷たくなった死体のような月なのだから。

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