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幸せ


僕の家は犬を飼っているのだが、それはそれは可愛い犬で、見るとしあわせになるし、可愛いし、心が元気ではない時に助けになるような素晴らしい生き物なので

犬畜生と呼んで生活している

そんな犬畜生と散歩をしているとそこらへんの一軒家から何やら小学生くらいの女の子の喚き声が聞こえてきたので、微笑ましい気持ちになった

たぶん、何食わぬ顔で生活するそこらへんの人間たちはさも自分は普通でまともな人間をしているというように振る舞ってはいるが、実はそう見せるのが上手なだけなのだろう

もちろん身勝手で主観的でそう思いたいという想像でしかないけれど、それぞれがそれぞれに何かを抱えていてその内側と外側を使い分けているのであって、こちらは人々の外側しか見えていないのかもしれない

そう考えるなら現代という今は、その外側に求めるハードルがあまりに高すぎるし、外側を”普通”たらしめられない人間にとってはあまりに生きづらすぎるし、内側に抱える何かを外側で見せないように、バレてしまわないように生きることもまた難しすぎるのではないかと思った

いつだったか大人ってなんなの?と尋ねた時に「大人なんていなくて、みんなそのふりをして生きているだけ」と答えたあの人の言ったセリフを思い出した

人々の外側だけを見てると、自分の抱える数多の何かをそれは自分にしかないように感じてしまうし、それなのに人々は何食わぬ顔で”普通”をするので、ひどく自分はしょうもないように思えてしまうけれど、この身勝手で浅はかで愚かな論理的思考に託けた”ぼくのかんがえたよのなか”が多少正解に近いのだとしたら

自分は自分の自意識を少しだけ保てると思って

微笑ましい気持ちになったのであって

そんなことを考え、文章を書くこの瞬間すらも犬畜生は、餌をもらえれば嬉しくて、撫でられたら尻尾を振って、リビングの隅っこのベッドで寝ているのだと思うと


「なんだなんだ?結局一番幸せなのは犬畜生じゃないか!」

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