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労働判例を読む#569

今日の労働判例
【学校法人A京都校事件】(京都地判R1.6.28労判1302.49)

 この事案は、若い女性教員Xが副校長Y1に何度もセクハラを受け、うつ病、PTSD、解離性障害などの症状が発症し、さらに後遺障害が認定され、労災も支給された事案です。Xは、Y1と学校Y2に損害賠償(民事労災)を請求し、裁判所は、その請求の一部を認めました。

1.セクハラの認定
 注目される1つ目のポイントは、セクハラの認定です。
 ここでは、7つのエピソードについて、一つ一つ、エピソード自体が事実なのかどうか、詳細に検討されています。どのようなエピソードがどのような事実や証拠で認定されるのか、丹念に読めば、非常に勉強になります。
 その中で、2つのエピソードについて、裁判所はXの迎合的な言動があったにもかかわらず、これに反してY1の言動に同意していない、と認定しました。
 この点は、アメリカの犯罪被害者の言動に関する調査研究の成果として紹介されることのある考え方に通じるものです。すなわちこの考え方は、強姦被害を受けた女性を中心に調査研究した結果示されたもので、被害者は、肉体や精神の損害を小さくするために、加害者に迎合的な言動を取ることがある、したがって、犯行の際に迎合的な言動を取り、又は明確に拒絶しなかったからといって、同意していたと評価することはできない、という考え方です。同様の考え方が示された最近の裁判例として、「人材派遣業A社ほか事件」(札幌地判R3.6.23労判1256.22、読本2023年版273頁)があります。
 本事案では、迎合的な言動を否定的に評価する場面は限られており、ハラスメントが明確に認定できない場合にだけ言及されています。事実認定について、迎合的な言動を否定的に評価するまでもない場合には言及しない、という趣旨でしょうか。
 セクハラへの対応の際、考慮すべき重要なポイントです。

2.Xの既往症
 Xには、統合失調症の母親ではなく祖父母に育てられ、父親に性的暴行を受けたり、親戚の入信する宗教の関係者に無理にホテルに連れ込まれ、リストカットしたことがあり、抗うつ剤を処方されていたり、など、とてもお気の毒な人生を送ってきました。
 ところが本事案では、このうちのメンタル面での既往症が、①ハラスメントと上記症状の間の事実的因果関係があるか、②同じく相当因果関係があるか、③損害賠償金額が減額されるか、という3つの場面で問題とされました。
 特に③の問題は、有名な「電通事件」最判H12.3.24労判779.13でも議論された論点に関係します。電通事件は、若い従業員が過労自殺した事案で、最高裁は、労働者の個性を理由とする過失相殺を否定しました。すなわち、人に相談できずに抱え込んでしまい、それが負担となって自殺した、という事案で、まじめで抱え込んでしまう、という性格などを理由に、損害賠償金額を減額できない、としたのです。これは、多様な個性のある従業員を雇っているのだから、その多様性の範囲内であれば、従業員の俗人的な事情で損害賠償金額を減額することはできない、という考え方です。
 これに対し、想定される多様性の範囲を超える、という趣旨でしょうか、勤続18年にも及ぶ中堅の公務員(従業員)の場合に、従業員側の事情を理由に損害賠償金額の減額を認めた最近の裁判例があります(「新潟市(市水道局)事件」新潟地判R4.11.24労判1290.18読本2024年版330頁)。
 本事案も、③に関し、損害賠償金額の減額を認めました。セクハラ行為の影響を、健常者よりも深刻に受けてしまう、このような特徴は想定される多様性の範囲を超える、という趣旨でしょうか。
 民事労災で従業員の属人的な事情によって損害賠償金額の減額が認められるのはどのような場合なのか、まだ明確になっていない面もあり、本裁判例はこの点で参考になります。

3.実務上のポイント
 Xの属人的な事情による影響は、①②でも議論されました。すなわち、Xの属人的な事情、という特殊な要因が原因なのであって、①事実的因果関係や②相当因果関係がないのではないか、というY側が提起した問題です。
 裁判所は、①について、就職してしばらく症状が落ち着いていた点を重視し、セクハラとメンタル発症との事実的因果関係を認めました。また、②について、Y1が、Xの属人的な事情を伺い知っていた(生徒の前で突然大声をあげるなど)ことから、精神的に不安定であることを知っていた、という理由で相当因果関係を認めました。
 ①と②の違いなど、裁判所はあまり詳しく説明しておらず、民法の損害賠償に関するルールの理解と、それとの整合性などの検証がなければ、その意味を正確に理解することが難しい内容となっていますが、特に②は、一般的な損害の場合には「予見可能性」が不要だが、特別損害の場合には「予見可能性」が必要、とする古くからの民法の理論が前提となった表現のようにも見えます。
 このように、民法の損害賠償に関するルールが、従業員の属人的な事情のある場合にどのように適用されるのか、という観点から、参考になります。
 また、この観点から改めて③を見てみると、電通事件の示した方向性ではなく、「予見可能性」を判断枠組みとすることも、ルールの在り方としてありうるのか、という問題もあり得ます。すなわち、②での判断と同様に、Xの属人的な事情についてY側に予見可能性があったのだから、Xの損害賠償金額の減額は認められない、というルールの方が良いのではないか、という議論です。
 たしかに、基準として一貫するので、構造的にスッキリします。
 しかし、①②は、責任があるかどうかの問題であり、③は、その責任の程度の問題、あるいはその損害をどのように配分するのか、という配分・程度の問題、であって性質が異なる問題です。ここで同じ基準を用いれば、両者の違いがなくなってしまいます。同じ基準にすべきである、という考え方は、異なる目的の異なるルールを同質化してしまうもので、合理的ではないように思われます。
 さらに、①②の表現を逆にみると、場合によっては、従業員の属人的な事情によって①②が否定される場合がある、と解釈することも可能です。
 今後、この点に関してどのようなルールや運用となっていくのか、という点も注目されます。

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!


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