労働判例を読む#554
今日の労働判例
【建設アスベスト訴訟(東京)事件】(最一判R3.5.17労判1299.5)
この事案は、一連の建設アスベスト訴訟の1つであり、アスベストに被曝して障害を負ったとする原告らXらが、国Y1や建材メーカーらY2らを相手に、損害賠償を請求した事案です。
最高裁は、2審がY2らの責任を否定した点について、最高裁がこれを破棄し、差し戻しました。
1.確率論
最高裁が唯一問題にしたのは、2審が否定した、確率論です。本判決は、確率による証明を否定した2審の判断を覆しましたので、どのような事実を証明するために、どのような確率論が議論されたのか、何が問題なのか、を整理しましょう。
まず、証明対象ですが、Xらが実際にアスベストに被曝した、という事実です。
古くは昭和40年代からの被曝事実が問題となっていますので、被曝事実を直接証明すべき事実や証拠は、ほぼ存在しません。Xらの経歴に応じて、様々な工事現場がありますが、それぞれ、アスベストが含まれている建材が実際に使われていたかどうかを証明するためには、例えば、Xらが実際にどの現場で働いていたかを特定し、そこでアスベストを含む建材の種類・製造者・製品番号・数料などを特定し、アスベストを排出するような具体的な業務内容・日時などを特定することが必要になるでしょうが、このような立証は、古くは50年以上昔のことであり、まともな記録は残されていないでしょう。
そのため、Xらが主張した確率論は、問題となる建材の種類ごとに個別に計算します。
具体的には、当該建材が(市場シェアなどに照らし)1つの現場で用いられる確率が10%、ある原告個人が、実際に働いた現場が20か所(❶)・30か所(❷)とした場合、当該個人がアスファルトに遭遇する確率を、以下のように計算します。
❶=1-(1-0.1)20=0.8784233…≒88%
❷=1-(1-0.1)30=0.9576088…≒96%
この計算式は、確率論における極めて初歩的な計算式で、例えば誕生日の同じ人が1人以上(1人以上だから、1-1/365となります。2人以上だと、1-2/365です)、クラスの中にいる確率(クラスの人数をxとする)を計算するような場合に用いられます。ちなみに、この場合の計算式は以下のとおりです(❸。クラスの人数が30人の場合の確率は❹)。
❸=1-(1-(1/365))x=1-(364/365)x
❹=1-(1-(1/365))30=1-(364/365)30=0.9209924…≒92%
このように見ると、特定の資材が用いられる確率をx、特定の原告が働いた現場の数をyとすると、一般化した計算式(❺)は以下のようになるはずです。
❺=1-(1-x)y
2.問題点と評価
そして、この計算式について、(最高裁の整理したところによると)2審は、以下のような問題を指摘し、被曝事実をこの計算式で計算することを否定しました。
① データの信用性
国交省が、アスベストを含有する建材のデータベースを整備していて、それが、様々な計算の根拠となっていますが、正確性が保証されていない。建材のシェアに関する資料も根拠となっているが、これは、市場動向を見るためのものにすぎず、継続的な調査の結果でもない。
このように、基礎となるデータ自体の信用性を否定しました。
② 計算式の合理性
上記計算式は、建材が現場に届くことが、「偶然的要素により決定され」ることを前提とするが、諸要素により定まる取引の結果なので(このような趣旨ではないかと思います)、上記計算式は不適切である。
このように、計算式自体の合理性を否定しました。
③ 証言などの信用性
Xら自身の証言の信用性が低くて裏付け証拠もなく、Y2らが反論できないとしても古いことなのでやむを得ず、反論しないことをY2らの不利益に評価できない、としました。
これに対して最高裁は、それぞれ以下のように否定しています。
①‘ データの信用性
さらなるアスベストの被曝防止目的のデータでもあり、それなりに制度が高いはずである、データベース構築委員会も関与して毎年見直しが行われており、制度も向上している、民間のシェアに関する資料もそれなりの制度が求められている、等としました。
②‘ 計算式の合理性
個別の流通プロセス自体も確率論の前提の中で考慮されている、という趣旨でしょうか。現実の流通経路の問題も含め、上記計算式の合理性を認めました。
③‘ 証言などの信用性
裏付け証拠がなくても、内容の合理性などからそれなりの信用性を認められるし、Y2らの中で何らかの反証をしている者があり、本当に事実と異なると考えれば、何らかの方法でその反論・反証がされるはずである、などとしました。
以上のように、上記計算式の信用性を否定した部分を破棄し、再審査を命じていますので、上記計算式による被曝事実の証明がされるかどうか、2審での検討と判断が注目されます。
2.実務上のポイント
統計的な証明手法として、疫学的な証明方法があります。環境汚染による障害の発生について、自然科学的に因果関係を証明できなくても、例えば、大気中の硫黄酸化物の濃度と、患者の発生率や発作回数との間の相関関係を根拠に、環境汚染が喘息の原因である、とする四日市市ぜんそく事件判決のような、判断がされることがあります。本来、因果関係と相関関係は意味が異なり、両者を混同してはいけないのですが、訴訟での因果関係は自然科学的な因果関係と異なり、言わば社会常識的なレベルで判断されるので、相関関係を因果関係認定の大きな要素と位置付けることが可能なのでしょう。
この疫学的証明では、相関関係が問題となっています(相関係数が用いられているのでしょうか)。
これに対して本事案は、被曝した確率を問題にしています。
疫学的証明は統計的な手法(複数の要素と複数の要素の関係)であり、本事案での確率論的手法(1つの要素と1つの要素の関係)とは明らかにアプローチから異なります。けれども、実際のデータをベースに検討される点、自然科学的に完全な証明を諦めている点で共通します。
現実的に、自然科学が全ての事象を解明しきれておらず、自然科学的な証明に至らない程度での証明であっても、止むを得ない場合は多くあるでしょう。また、人間関係を規律する社会的なルールである法律の役割りから見ると、権利義務の発生や、損益の分配を決定する際に、厳密な科学的証明を要求することがかえって不都合な場面もあるでしょう。
社会的なルールである法(その中でも、特に因果関係など)を判断・適用する際の基準として、このようなレベル・手法での因果関係の証明が、どこまで、どのように広がるのか、今後の動向が注目されます。
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