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セカンドレイプについて思うこと

   伊藤詩織さんの勝訴判決はとてもうれしいニュース。しかし、加害者と認定された山口氏をめぐる言説は驚くほど前近代的で、日本の闇を見せられた思いだった。会見の内容は驚くような内容だった。

小田嶋さんがセカンドレイプ言説の問題性をしっかりまとめてくださった。


「うそつき」をめぐる奇天烈な話:日経ビジネス電子版

改めて目を疑うような言説
そして小田嶋さんがいう通り
本当の被害者というのは声を上げられないはずだというのはなんと加害者に都合の良い言説だろう!

是非読んでほしいと思う。

私が根深いと思ったのは、この記事で丁寧に書き起こされている山口氏擁護派の発言だ。それは山口氏自身が会見で

本当の被害者だったら笑ったり、テレビに出てあんな表情は絶対にしない

などと発言した際に援用したものだ(山口氏の発言に対しては「被害者はずっと下を向いているべきだというのか?」と世論の批判を浴びた)。

  山口氏の支援者の女性は、

本当の被害者は詩織さんを見て違和感を感じ、声を上げる詩織さんに自分の人生を奪われたように感じた

と主張したという。
しかし私は全く反対の状況を目撃した。
2018年2月に伊藤詩織さんをゲストにイベントを開催した時である。

   詩織さんが登壇できることは偶然に決まった。しかし、詩織さんも参加するとアナウンスすると、想定を超えた多くの方が日本全国から足を運び、その多くは私たちの団体のイベントに初めて足を運ぶ人だった。私は詩織さんの行動がこの人たちに与えた影響力に驚いた。参加した方々の表情は極めて真摯だった。被害当事者の方が多かったのだ。このイベントの情報を聞いて、ここに来ることを決めて、家を出て、会場にたどり着いた一人一人の方がどんな気持ちだったのかについて考えた。被害を記憶から葬ろうとずっと戦ってきた人もいただろう。そうした方々が「なかったことにしたくない」という詩織さんの話を聞きに来られたのだ。

   そして、性被害にあった方々がイベント終了後、長蛇の列を作って詩織さんに話しかけた。
 彼女たち彼らは、詩織さんの行動にどれだけ励まされたのか、どんなに応援しているかを詩織さんに語っていた。そして自分の被害や苦しみも打ち明けていた。詩織さんは一人一人に丁寧に向き合い、涙を流しながら長いこと語り合っていた。

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     詩織さんを見て違和感を感じ、声を上げる詩織さんに自分の人生を奪われたように感じたような人はいなかった。むしろその反対、詩織さんに救われた、励まされた、応援しています、ありがとう、という人たちばかりだった。信頼していなければ、わざわざ出かけてきて、自分の被害を訴えたりしないはずだ。

   人は多様であり、当事者も多様だ。
    詩織さんに複雑な気持ちを抱く当事者ももしかしたらいるかもしれない。
しかし勝手な被害者像を外部の者が作り上げ、それに当てはまらない人を攻撃したり、まして嘘つきだということは極めて暴力的な介入であり、どれだけ被害者を傷つけ絶望させるか、知るべきだと思う。

山口氏の

本当の被害者だったら笑ったり、テレビに出てあんな表情は絶対にしない

との発言について改めて問題性を考える。

「レイプは魂の殺人だ」とよく言う。被害の深刻さを表す言葉だ。
 しかし、ある被害者はこの表現が嫌いだと言った。
「私たちは殺されてはいません。生きています」と訴えた。
私たち社会は被害当事者の方々を「死人に口なし」の死人にしてはならない
生きててよかったと思ってもらえる瞬間を少しでも増やしたい。

   そんな思いで私は、私にできそうなことをしているし。皆さんにも力を貸してあげてほしい。

   これは人権問題一般に言えることだけれど、人権侵害はパワーダイナミックスの下で生まれる。もともと強い立場の人が弱い立場の人を踏みつけにし、そのことによって弱い立場に置かれた人はより一層困難な状況に置かれ(負傷、家族離散、難民化、精神的なダメージ、PTSD、バッシングなどその正体は様々、最も深刻なのは死である)、孤立化し、被害について声をあげにくい状況に置かれる。

    だから、人権侵害について告発する者がいなければ、加害者は往々にして他人を踏みつけたことについて罪に問われず、同じ加害を繰り返し、ますます強者になっていく。

   被害者は難民キャンプで栄養失調ギリギリで涙にくれている、学校でいじめにあって精神的に追い詰められ、不登校になる、性被害にあったら一生男性に恐怖し、下を向いて生きる。、。そうしたイメージ、被害者とはそういう者だとメディアも伝える。

   そんな中、自分が踏みつけたはずの人間が、弱い立場に陥れたというのに、突然、権利を主張し、人権侵害を不正義だと告発し、差別是正を求める。そのことに加害者は驚き、全力でたたき潰そうとする。だからセカンドレイプなど、声をあげた人、物言う「弱者」へのバッシングは起きる。特に声を上げる女性やマイノリティは叩かれる。告発、権利主張をする際の身ぶりや話し方までチェックされて非難するトーンボリシングも盛んに行われる。

  弱者が弱者らしくない姿で立ち現れ、権利を主張し、不正義と戦おうとすることが彼らには想定外であり、許せない。

   全ては強い者が強い者であり続けるため、人権侵害の構造である強者と弱者の関係・構造(強者は好きな時に弱者を踏みつけられるし、たまには施しもするが、弱者が強者に理路整然と告発したり権利主張することは想定されていない)を維持するために、そうした力学は働く。

    加害者だけでなく世間の人も同調してしまうーだって加害者は強いポジションにいて自信がありげだから、それに異論を唱えるのは怖いことだし、同調していれば安泰だから。

    しかし、踏みつけられた者も等しく人間であり、弱者に止まらなければならない理由などない。人間性を、主体性を、尊厳を回復する権利がある。幸せに生きる権利がある。

  人間性を回復する方法として、逃げる、忘れるというやり方もあるが、戦う、権利回復を求めるという道は大切に保障されなければならない。そして告発し戦うという道を誰も選ばなければ、第2第3の被害者が出てしまう。

   被害を受けた人が声を上げる、そのとても大切なことを可能にするため、社会に必要なことは何か? 

    バッシングに同調せずに、被害にあった人たちを幅広く社会でサポートすること、声をあげた被害者の方を一人にせずに励ますことだと私は思う。SNSで応援するのでもいい。どんなやり方でも力になる。誰一人として無力ではなく、はげます力を持っている。

   そうしたサポートがなく声をあげにくい社会では次はあなた自身が被害にあうかもしれない。

  これはすべての人権活動に通じることだと私は信じている。

   ところで、こんなツイートを見ると根深いものを感じる。


 彼女の母親世代の女性たちのこうした態度はいつどうやって形成されたのか、絶望的になる。

 自分たちの世代が諦めてきたこと、仕方ないと思ってきたこと、ジェンダーロールからやってはいけないと自分に言い聞かせてきたこと、断念してきたこと、それを見過ごさずに正面から挑んで、おかしいといい、声を上げる、自己主張する、権利を享受する、自分の夢をかなえようと行動する、そういう若い世代の行動に我慢できないのだろうか?  

 女性が苦しみから逃れるために正面から挑むことに足を引っ張ってしまう。みんなが不幸になればいい、そうじゃないと心が穏やかでいられないというのか?

 でもそんな呪いはもうたくさんだ。若い女性にはそんな呪いやこじらせた感情の影響を受けないでほしい。

 自分を大事にして、決して加害者に回らない、潔い生き方を貫いて、お互いに励ましあって、諦めずに、もっと自由と平等を求めて、少しでも多く笑って、バトンを次世代に繋いでほしいと心から願う。

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