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のびやかな社会へのシフト。単身赴任と満員電車がなくなったら。

富士通の単身赴任削減のニュースを見て、とっても感慨深かった。

 額面通りに受け止めるならそのメッセージはとても強くて感動した。すべての大企業に広がるといいな。

私の父も、夫もそれぞれ二回単身赴任した。やっぱり単身赴任されている間はいろんな辛いことも起きたし心細かったり寂しかったりしたことをよく覚えてる。

自分の経験からも単身赴任は家族に対する人権侵害だと思ってきた。

 単身赴任しないとしても、定期的な全国転勤がサラリーマンの人間性を奪い、全人格的に企業に忠誠を誓わせ、生活全体を企業がコントロールし、まるで人を企業の奴隷にしていると思ってきた。

 見せしめ的差別的な配転があったり(世界規模で言うとこんな感じ)


 家族が一緒に全国を転々として転校生であり続けたり、妻は仕事を諦めざるを得なかったり(一方、DVモラハラ夫が単身赴任するとほっとするという側面もあるが、それはまた別の結婚をめぐる解決すべき問題)。

 配置転換を断ると出世のルートから外されたり中には解雇されるケースもある。全国配転が「踏み絵」となって職場のコース別管理や女性の賃金、昇格、昇進差別が正当化されたりしてきた。

 私の前後、均等法世代は、「会社の命令でいついかなる時も全国どこでも転勤をすることを覚悟する総合職か。転勤をしない一般職か」と踏み絵を踏まされ、翼を折られた女性たちも多い。

 私が弁護士になって最初に担当した労働事件が、女性に対する遠隔地への配転拒否解雇事件ーメレスグリオ事件で、最高裁まで争って解雇は無効と認められ、女性は職場復帰した。


 この事件をやっている間ずっと(一審敗訴、東京高裁で逆転勝訴したこともあり)「無理だよ」「勝てないよ」と言われ、つくづくおかしいと思った。

 特に、他国にはあまり例をみない全国転勤制度。みんなが定期的に転勤しなければならない合理性を全く感じられない。合理性のない苦痛と我慢を強いる日本の企業文化。日本特有の悪弊は本当に理不尽だと思ってきた。そして、ずっと変えられないんじゃないかと思ってきた。

 でもそれがコロナを契機に変わろうとしている。合理性のない苦痛と忍耐がなくなるかもしれない。とても希望が見える。

 全国転勤と満員電車がなくなり、長時間残業も減って、好きな場所から仕事や勉強ができるようになったら、どんなに自由だろう、どんなにクリエイティビティも上がるだろうってずっと思ってきた。

だから、リモート勤務、満員電車に乗らなくてよくなる方向も一過性じゃなく続いてほしい。

 社会に出る前、満員電車の通勤地獄こそ人権侵害の際たるものだとずっと思ってきた。なんであんなことに大人が耐え続けなければならないのかと思ってきた。通勤ストレス、痴漢被害、1日2〜3時間の通勤でくたくたに疲れ、家庭と子育ての狭間に置かれ、どちらかを選ぶことを余儀なくされるワーキングマザーも多い。

 だからリモートワーク、素晴らしいと思う。1日2〜3時間、時間に余裕ができるって、人生にとってどれだけ大きなことだろう。人生は有限、有限なかけがえのない時間が取り戻せる。


この「がんばるな、ニッポン」素晴らしいですね。強調してもしすぎない。

「職場のコミュニケーションに支障が」という人もいる。でも、それって職場の強者の論理であり、みんなが職場で生きづらいわけじゃない。人間関係に悩む人もいる。仕事は苦にならないけど人間関係のストレスがあるという人にとっては、リモートワークで救われること、ほっとすることってたくさんあると思う。

学校もそう。

 私が子どもの頃は不登校は許されず、みんないじめられても学校に行くしか選択肢がなかった。「学校に行かない権利がある」と叫ばれ始めたのは、90年代以降じゃないか?

それでも学校に行かなければならずいじめ自殺をする子どもたちがいる。

 コロナを機会に、学校に行くか行かないか、選択できるようになってほしい。以下の記事で、荻上さんはとても細やかに子どもたちの気持ちを考えているが、その通りだと思う。よくわかります。


 私たち日本人は、やらなくていいことまで、我慢してやり続けて、すごく重荷を追ってきたと思う。でもほんとうは本質的に必要じゃないことが多かったんじゃない?みんながやっているから、社会とルールだからと、降りられないで無理強いされてきたこと、一見自発的に駆り立てられてきたことがいっぱいあった。

 今、それが一つ一つなくなって、本当に必要なことだけやっていくような社会になってほしい。

 もっというと、数ヶ月経済活動ができないだけで、億単位の借金を背負ったり、商売を諦めたり、家を失ったり、生活や生存が危機的になるのはなぜなんだろう。

  多くの人が農民だった封建時代はもっと長いスパンでゆとりがあったんじゃないだろうか?まして今では、農業技術が安定して、食料に困ったり飢饉になることはないし、日本中に空き家があって、土地もたくさんある。

 多くの仕事は第三次産業、衣食住以外の産業になっているのに、なんでみんながあくせくと余裕がなく、崖っぷちで、豊かになれないんだろう。

  なぜ経済発展は人を豊かにしたりゆとりを生み出すのでなく、一層競争に駆り立て、人々が過酷な生存競争を生きなければならないのだろう。

 話が飛ぶけれど、私が20年くらい前にパキスタンに行った時、すごく面白かったことがある。アフガニスタンへの米国の侵攻の後だ。確かにいろいろきな臭い。しかし、政府がすべての国民が家を持てるように地方に土地と泥を与え、家のなかった人も地方に泥の家を建てたと聞いた。こうした政策が浸透した結果、その頃社会問題になってきたのは、一日中ぼーっと暮らす男性たちの問題で、持ち家と土地があるので家賃を払う必要もないし、自宅になる木の実を年に数回収穫して売れば、食べるに困らないので、ぼーっとしてるんだと聞いた。

  パキスタンのあちこちを移動して本当にそう言う人たちを見た。生きがいという点で問題があるとしても、日本人ももっとパキスタンの人たちみたいに、ぼーっとしていても生きていけるといいのになあと思った。

  ぼーっとできる時間が多いから若者はコーランに没頭して過激化するのかもしれないが、逆に考える自由時間がそれだけあるということでもある(そういえば子どもの頃、子どもを不良に走ったりさせないためには、部活で忙しくさせて余計なことを考えなくさせるのが一番だと担任が言っていたな。そんなことを心配して私たちの時間をコントロールして、考える自由な時間を奪うなんてって恐ろしいことだ。)

 なぜもっと豊かな国に生きているはずなのに私たちは追い詰められてストレスを抱え、崖っぷちなのか?

コロナを機会にそれが変わり、もっと生きやすい社会になってほしい。

 今、生活に困っている人たちが希望すれば、日本のあちこちに余っている土地や空き家を提供してしばらく休みたいだけ休んでもらったらどうだろうか?近所の農作業を少し手伝って野菜やお米を分けてもらって暮らす。必要な公的財政援助はそんなに多額じゃないはず。そんな中で日本が、疲れた人たちが、ゆっくりと呼吸を取り戻して再生していくといいな。

 私自身は、去年に頸椎ヘルニアをして、「休む」ことになった。

 そこで本当はやらなくていいことに囚われて駆り立てられてきたことに気がついて脱皮するように「本当はやらなくていいこと」を一つ一つ剥がしてきた。だから、すごく自然に生活をシフトしている。

 多くの人がコロナという大変な事態を受けて、もっと楽に生きられるニューノーマルにシフトしていけるといいなと思っています。

 

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