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昭和の子どもの生活            ーNo.3 j医とペニシリンに救われる

・・・・・この部分は毎回書きます・・・・・

 茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが、そこに私は生まれた。戦争が終わって5年経った昭和は25年(1950年)のことである。
 その中の、低い山を切り開いてつくられた「鉢形」という地区が生活の舞台であった。。
 ここは鹿島の中でも特に辺鄙(へんぴ)な所で、バスは通っておらず、自動車が通ることもまずなかった。
 ほとんどの家は農業をしており、米作りがその中心であった。
 これから、そこを中心にした私の子ども時代の生活を書いていこうと思う。

 子どもの生活に焦点を当ててそれを詳しく書いたものは、私の知る限り日本のどの時代にも存在しない。
 生きていたのは大人だけではない。子どもも同じ時代を立派に生きていたのである。
 記憶は薄れてきており、時と場所も限られてはしまうが、ここでは昭和の一時代の子どもの生活を、できる限り具体的に文字として残しておきたい。

・・・・・・

《j医とペニシリンに救われる》
 四歳の時、腹部に激痛が起こった。普通の痛みではない。腹を両手で押さえて畳の上を転げ回った・・・。
 覚えているのはそこまで。以下は、後日母から聞いた話である。
 
 まず、鹿島町内のかかりつけの医師に往診を頼んだ。診察した医師は、「自分には手に負えない」と言って帰った。
 父は、隣の息栖村まで自転車で行き、そこのjという医師に往診を頼んだ。
 オートバイでやってきたj医は、診察後に前の医師.と同様悲観的なことを言ったが、一つだけ付け加えた。「今は新しい薬がある。これを使えば助かる可能性はある。」「ただ、この薬は高い」
 父は「使ってください」と言った。
 j医はすぐにそれを私の尻に注射した。
 すると、私の顔に少し生気が蘇ってきた。
 「これは助かるかもしれない」
 この薬が「ペニシリン」であった。

 こうして私は、高い料金のかかるハイヤーに乗せられてj医院に入院した。

 病院での記憶はいくつか残っている。
 「水!、水!」。水を飲ませてもらえない私は、ベッドで何度もこう叫んだ。すると、白衣の看護婦(多分、j医の妻)が来て私のくちびるを水を含んだ脱脂綿でぬぐってくれた。これだけでもありがたかった。時には白い液体を飲ませてくれた。後で思えば、これは薬であったが、水をほしがっている体に染みわたった。
 覚えているのはこれくらいである。
 その後、病気は順調に回復していった。

 よくわからないが二週間ほど入院していたのだろうか。退院となり、またタクシーに乗って家に帰った。幼い私は、流れていく景色を車内から見ていた。元気になっていた。
 
 病名は何だったのか。これも母から聞いたのだが、どうも「疫痢」という病気だったらしい。病気にかかる前の私の生活や行動を親から聞いたj医の推察では、田んぼの水を飲んだのが原因ではではないか、ということであった。確かに田植えをする祖父についていって田んぼの中で水遊びをし、水がくちびるに撥ねた記憶がある。飲み込みはしなかったはずだが、口に入ってしまったのかもしれない。その他、自分なりにあれこれ考えてきたのだが、本当のところはよくわからないままである。

 とにかく、幼くして死にかけた私であったが、その後はけっこう長く生きることになった。これはj医とペニシリンのおかげである。どちらが欠けても私はこの世にいなかった。

 小学校入学以後も、j医には風邪を引いた時に何度か診察してもらったが、記憶に強く残っているのは学生のときである。入っていくと、私の顔を見て「おう」とうれしそうに言った。そうであろう。自分が助けた幼い命が、大きくなって久しぶりにやってきたのである。
 私も「この先生に助けてもらったのだ」と思い、頭を下げた。
 「今どうしてる?」「学生です」「おおそうか」、そのような会話を交わしてから診てもらった。ふつうの風邪なので短い時間で診察は終了した。そしてこれがj医に受けた最後の診察となった。

 ――あれから数十年が過ぎた。年齢から考えてj医はもう存命ではない。病院もなくなっている。墓参りに行きたいと思ったことは二度や三度ではないが、その墓がどこにあるのかがわからない。できるのはただ冥福を祈ることのみ。あのおだやかな顔を思い浮かべながら、これまで何度となく手を合わせてきた。これからも、j医とペニシリンに救われた命が薄れる日まで、それは続くであろう。

・・今回はここまでです また近いうちにお会いしましょう・・



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