朝起きると君は居なくなっていた

吐瀉物をトイレに流した。レバーを捻るだけでそれは流れていく。ぐるぐる。流れる渦をぼーっと眺めていた。四六時中おれに付き纏う、陰鬱も一緒に流れてくれれば良いのに。着いてくるな、どこかに、遠くに、どこかに。もっと言えばおれ自身も流してくれれば。ぐるぐる、ぐるぐる。少しずつ、ゆっくりと、水の流れが止まって、渦が止まった。


雑踏の中の喧騒。その全ての音が、煩わしい、うるさい。知らない人の話し声が耳に入る度に動悸がして、どうしようもなく叫びたくなる。どうしようもなく逃げたくなる。どこかへ、静かな所へ、人工音が、聞こえない所へ。

電車の中で、お茶を飲もうとペットボトルの蓋を開け、そのまま背伸びをして僕はびしょ濡れになる。周りの誰かが僕を見る、物乞いを見るような目で。蔑むような目で。自分より下が居れば、安心した様な気になる。そんなものは所詮、一過性のものに過ぎないのに。侮蔑。悶々。思慮。たった3秒前の思考さえも、行動に移せない。生きづらくて、生きれなくて。どうしようもなく消えたいけど、まだ、あと少し、あと少しだけ。

躁鬱症を患って、夜眠れない彼女の気持ちを。健全者に分かる筈が無くて。飢えや渇きに苦しんで、幻覚を見ながら生死を彷徨う子供の気持ちを。平然と食べ物を捨てる人が分かる筈も無いように。思いやりのある人が、想像してある程度寄り添う事は出来ても、同じ時系列で同じ経験をしていないと、他人を理解するなんて到底出来ない。にも関わらず、思いやりのある人の方が少数派のこの世界は余りにも生きづらい。

ハンガーで背中を叩かれる、真っ暗で狭い物置に閉じ込められる、上履きを捨てられる、筆箱に給食を詰められる、椅子の上に画鋲を置かれる、心が心じゃなくなる程の言葉、体中が痒くなる病気、寝ている間に無意識に掻きむしって、血だらけになったシーツ。引っ掻き傷。赤色に染まったシーツ。引っ搔き傷。6歳、7歳、14歳、15歳、18歳、20歳、21歳。

笑顔で虫を潰している5歳の男の子。自棄になり3倍以上敵兵が居る敵地に突撃指示を出す上官。そこに悪意は微塵も無かったりする。好奇心、快楽。あるいは排他性、不寛容。それらは、容赦なく心を損なって壊していく。人を殺す。当たり前の権利さえも当たり前じゃなくて、当たり前に享受されない事に気づいてから。おれは、同じ経験をした誰かを探している。同じ感傷を持つ彼を探している。理解してくれる彼女を探している。

3歳で終わるはずだったイヤイヤ期を、おれは21歳になっても拗らせている。病気は治ったけど。体中に残った引っ掻き傷。灰になるまで消えないその傷跡。醜い傷跡。傷跡を隠すよう上に被せた意味も持たないタトゥー。薄暗い部屋の中。陰鬱を纏った部屋の中。君はその傷跡を、今にも消えそうなくらい真っ白な指で、優しく、そっと、なぞりながら言った。

「その傷跡だけが、あなたが世界に、どうしようもないくらい生きづらいこの世界に、どうしようもないくらい不条理なこの世界に、残したたった一つの意味なのだとしたら、私はその傷を、あなたが生きた証を、毎日なぞってあげるから。そうすれば、どうしようもないこの世界で、あなたに一つだけ、たった一つだけでも、生きる意味が出来るでしょ?」

君は傷跡を、優しく、そっと、なぞるように舐めた。無意識下に残された体中の引っ掻き傷の跡だけが、僕が持つ、たった一つの特別になった。君は泣いていた。

おれはずっと、何かになりたかった。何かを残したかった。生きた意味を残したかった。誰かの一部になりたかった。誰かと一つになりたかった。たとえそれが、断片的であったとしても。刹那的であったとしても。

朝起きると、君は居なくなっていた。
布団の中に暖かさを残して、居なくなっていた。その暖かさの中には、僅かな冷たさが含まれていた。パラドックス。遠くに。どこかに。遠くに。僕がいけない所に。君は行ってしまった。

月にでも行ってくれれば良かったのに。そうすれば毎日、どうしようも無く死にたくなる夜に、少しだけ、少しだけでも、君を感じられるのに。少しだけ、少しだけでも、生きてみようと思えるのに。

薄明かりのトイレの中。ぐるぐる、波が立つ。ぐるぐる、ゆっくりと、少しずつ、渦が巻き戻っていく。ぐるぐる、ぐるぐる。レバーがひとりでに捻られて、渦が止まった。そこには嗚咽感と、どこにもいけない僕だけが残されていた。




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