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君に言ってんだぞ、ヘルマン・ヘッセ

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「眠る前にきいてください。僕は、煙草を吸うようになりました」


「先日ね、僕はついに訊かれたんだ。何になりたいんだ、未来のために今何をしているんだ、ってそういう具合に」
「僕は一言だって答えられなかったよ。何か気の利いた言葉があっただろうに」
「そこで思ったんだ、僕は乾ききって形を保っているんだよ。標本だ」
「僕はあの日の君によってピン止めされてしまったのだ。展翅針で止められてしまったのだ、十年の歳月をたわませながらね。収集家に運命づけられてしまったのだよ」
「御覧よ。これが僕の標本箱、」
  ぎぃと箱が鳴いた。ぷくりと何かの粉末が漏れ出した。
「ふふふ、」
「これ、君という専門家が馬鹿にしたやつだよ。ニ十ペニヒだっけ。今見ればみすぼらしいね、潰しちまおうかな」
 何か忘れている気がする。ガラスの一点をコツコツ叩いて思案する。忘れていたことを思い出した瞬間、箱の中は色あせた。
「ちぇ、そうだよ。もう全部潰しちまったんだった、あの日に、ひとりで」
「潰し損ねた蝶々の胴体を覗いてみたらさ、空洞になりきれないでビラビラしたのが糜爛もしないで残ってるの。つまり僕の胎の中であるのだけれど。君が出て行かない、君の言葉、が。覗きたくなくってそれは丁寧に丁寧に潰したよ」
「エーミール、君がいなけりゃあ。君がいなけりゃあ、さ」
(はぅ)
 誰かの吐息。
「愛しいね。憎らしい。違う、羨ましかったの、それだけだよ。それ以外見えなかったんだよ。僕の青臭い感傷を君に塗り付けてやるよ。エーミール、ちっさな君の部屋の、あの窓辺で見ていてよ。ガラスの奥から見ていてよ、僕、僕を」
「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」
「見放さないで……」
 箱を抱いて僕は反り返った。バレリーナみたい。蛹からおちかける蝶の胴体の真似。
 僕の蝶たちがさんざめいた。僕は蝶々の仲間入りしたかもしれない。ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ、ふふふふふふふふふふ、さざめきが僕を迎えた。
「ぁ?ほらヤママユガだ」
(ぎぃ、かたン)
「そんな目でみないで、エーミール」
 さんざめく、さざめきが、さわさわと箱からあふれ出した。

(カチ、カチ)
「僕は、煙草を吸うようになりました。灰になる先端からみごとな蝶が零れていくのが見えます。受け止める僕の手はやけどだらけです」


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